婦人美(一)

大正十一年四月十六日

於松江高等女学校

女学生・婦人会員のに

 今日は婦人美ということについてお話し致したいと思います。

 現今、世上に婦人問題を論ずる者は多いのですが、真の女性の(=天性)をえ、また神が女性をこの世に造り給うたを深く理解して評論するものが少ないのは、にの至りであります。

 女性本来の性情を知らずして女子教育を行ない、あるいは婦人に関する評論をなし、あるいは女子のな心をてて、いわゆる「新しい女」を作りあげ、あるいは反対に(=時代遅れで頑迷)の教育を施して、時代に合わぬ婦人を作り、だしきに至っては、女子の好奇心を利用して、もう一歩踏み入るなら発売禁止になるような、いかがわしい記事を載せた雑誌を売り付け、その道念を破壊してみず、あるいは美顔術・化粧法などを推奨して、女優や芸者まがいのを、良家の娘の間に流行させて得意になっている者もおります。

 要するに婦人本来の奥深い要求を満足させるべき教育を施す者、またそういう評論をなす者が非常に少ないのは、残念なことであります。この点は諸君も女子として自ら深く考え、かつ大いに研究すべき所であります。

名は忘れましたが、西洋のある哲人の語に、「女は善人になるよりも、美人になることを欲す」とあります。またモンテーニュ(=フランス16世紀の思想家)は「女が己の美を増すなら、堪え得ぬ困難はない」と言いました。婦人本来の性情は美を愛し、美を求めることに集中しております。では何をもって真の美と言うのか、またいかにして真の美を養うべきか。順序として、まず形体美についてお話ししてみたいと思います。

第一 形体美

 これは昔から今に至るまで、多くの人々によってされて来たところでありますが、形体美にも下等なものと高尚なものがあることを知らねばなりません。近来婦人の関心はてして下等な方面が多く、を厚くし、紅を濃くし、服装を華美にし、さらにって(=あでやかな美)となり、(=おごり高ぶった美)となり、さらにちては(=なまめかしい美)となっている者さえあります。そうして自分では美しいと思っているが、真の美をえた者の眼から見ると、下等なが見えいた感がして、決して美しいとは思えないのであります。

 美の高尚なものには、天真美・純潔美・優美などがあります。天真美とは、わずに美しいもの、たとえ化粧はしても、自然さを損なわず、自然と調和して美しいものを言います。純潔美・優美は精神の美が形体の上に現れたものであります。ところが世間には、内面の精神には心を用いず、ら外面を装うことにのみきをやつし、って天真美をない、優美を失う者が多いのです。

 仏道の方では「を塗らずしてずから風流」(武田信玄)という語があります。これは修行を積み、悟道に達した人の精神状態を言ったものでありますが、天真美の形容として借用することもできます。またレッシング(=18世紀ドイツ啓蒙主義の劇作家)は「人が真に美しいのであれば、粉飾しない時にこそ最も美しい」と言いました。東西じて同じ事を言っているのは、深く味わうべき所です。

 では天真美・優美を身に着けるには、いかにすべきか。これには三つ大切なことがあります。

  1. 姿勢

日本女性の姿勢はよくありません。女学校が開かれて以来、いろいろ矯正が試みられましたが、いまだ完全ではありません。昔は結髪・衣服などの関係上、婦人はみにならざるを得ず、男子は逆にになって歩いていましたので、「み女にり男」という言葉がありました。明治のになりましても、女子はいわゆる《猫背》の者が少なくなく、老婦人に至っては、完全に腰が折れ曲がってしまってそうです。

姿勢には(イ)座った姿勢(ロ)立った姿勢(ハ)歩く姿勢、の三つがありますが、いずれも美しくなければなりません。「立てば、座れば、歩く姿はの花」という言葉が、この三つの姿勢の美しさを形容しております。姿勢をよくするには、常に上半身をっぐにしなければなりません。そのお手本は禅師(=日本曹洞宗開祖)の『』という書物に示されましたものが、最もよいと思います。すなわち、「鼻ととし、耳と肩とす」、そして禅師(=日本臨済宗中興の祖)が『』で教えたとおり、「一身の元気(=全身の精気)」を「(=の下)」にたすのであります。

なおこの事に関しては、謙三博士(=日本疫学界の重鎮)のした『腹式呼吸の話』と藤田さん(=丹田式呼吸法の創案者)の『調和法前伝』と、私の弟(=)の書いた『心身強健体格改造法』をご覧になれば、参考になると思います。

  1. 運動

 古代ギリシア人は、美の観念において非常に発達しており、そのした彫刻などを見ますと、男女の形体美の理想とすべきものが多いのですが、その美は全て身体の運動・鍛錬によって獲得されたものであると言います。製糸株式会社において実施しております「肥田式強健術」は、健康増進と同時に、形体美を養う上において、学理的に研究されたもので、しかも時間は僅か数分間でできるものでありますから、大いに世間に奨励したいと考えています。

 近年、我が国でも婦人の運動熱が盛んになりましたことは、実に喜ばしいことですが、運動の真の目的を離れて、競争的・競技的になり、婦人に男子同様の猛烈な練習をさせたり、走り高飛びをさせるなどは、女子の運動の本義を離れたものであると思います。これは婦人が屋内にのみ引篭もって生活していた時代の反動として起こった、一種の風潮であって、決して健全なものとは思われません。

  1. 食物

これまた重要な問題であります。従来日本人は白米を主食に、種々の副食物から栄養分を補おうとして来ましたが、これは誤りのだしいものでありまして、米は精米するほど本来の滋養分を失います。ですからか玄米を食べておれば、さほど副食の取り合わせに気をうことはなくなるのであります。それを「客人に黒い飯を出すのは失礼だ」などと考える。田尻稲次郎博士(=政治家・経済学者。専修大学創始者の一人)のお宅では、先生は玄米食で、女中は白米を食べているそうです。

一家の主婦たる者は、常に滋養分のある食物を選び、見た目の配慮よりも、健康の増進にこそ心掛けなければなりません。野菜類・海藻類にはカルシウム・アルカリなどの必要成分を多量に含み、特にワカメ・昆布にその含有量が多いとのことであります。

これら運動や食物の問題は私の専門外でありますから、これくらいに留めますが、とにかく人の形体美には、姿勢・運動・食物の三つに注意することが必要であり、それによって健康美・均整美・調和美をうべきであります。次に精神の美についてお話し申しあげたいと思います。

第二 精神美

精神修養に《美の観念》を持ち込むことは、あまり行なわれません。ら《善》という観点から語られ、《美》という方面はなおざりにされております。多くの女学校の教育においてもそのとおりで、心の善を強要して、心の美ということを奨励しません。たまたま美を語れば、それは自然美や文芸・芸術の美に留まり、精神美に関しては質素とか、勤勉とか、節約ということのみ力説して、には木綿の地味な衣服を着せようとしますので、卒業後、生徒は反動的に華美・低級な美に走り、自己本能の欲求を充たそうとして、せっかく多年受けてきた学校教育の効果を、自ら破り捨ててしまうのです。

ゆえに女子を教育するに当たっては、正しく形体美を養うとともに、一層深く精神美を養うよう指導しなければなりません。ではいかにして精神美を養うかと言いますと、これには五つほど大切なことがあります。

  1. 信仰

信仰の本尊は完全でなければなりません。信仰は自己の心の全てを支配するものですから、不完全なものを信じますと、そのために心がって悪くなってしまいます。では完全なる本尊とは何でしょうか。それは真・善・美・愛の神であります。およそ神の見方を小さくして、例えば善のみに限るとしますと、美を味わいたいという要求が充たされません。その結果、美を形の上から求めようとします。

本来、神は「真にして美」・「善にして美」・「愛にして美」なるものであります。天地

間一切の美は神の美の(=眼に見える現われ)であります。私どもはそれを信ずることが大切であります。これを信じ、これに信頼するのみならず、これと合一することが真の信仰の極致であります。すなわち真を慕う心は神の真のごとく真になり、道理をれなくなる。美を愛する心は神の美のごとくなり、日のごとく輝き、月のごとくかに、雪のごとくく、花のごとくしくなる。神の美に合一した眼をもって見ますと、近頃の文芸に現われる人物など、醜悪で見るに耐えません。

以上、真・善・美・愛を個々に分けてお話ししましたが、よりこれは一つであります。心理学者が一つの心を智・情・意に分けて説明するのと同じことです。《神の真》は学者が頭で考えるような冷たい真ではなく、善にして美、美にして愛なる真であります。また《神の善》は世間の道徳家の考えるような四角四面の窮屈な善ではなく、真にして美、美にして愛なる善であります。同じく《神の愛》は今の宗教家や文学者が考えるような醜劣な愛ではなく、真にして善、善にして美なる愛であります。そして《神の美》は、真にして善、善にして愛なる美であります。

完全なる信仰は、この完全なる真・善・美・愛の神に合一することであります。キリストは「天の父のきが如く、汝らも全かれ」(マタイ5-48)とお教えになりました。人の心の中には、不完全ながらもこの真・善・美・愛が備わっております。学問をして天地の真理を知ろうとする心は、神の真から来ています。ら善くなりたいと思って修養し、他を善くしたいと願って教育する心は、神の善から来ています。美をでる心は神の美の現われであり、愛し愛されたいと願う心は神の愛の反映であります。人の心のこれらの欲求は、神の完全と合一したいという潜在意識の基礎であります。

神の美は日月の美となり、またの美となって現われております。また人事(=人の営み)の上から申せば、無邪気な幼児の笑顔の上にも、百難に屈せざる(=立派な男子)の精神にも、困難苦痛の間に夫を助ける貞婦の魂にも、また多くの誘惑の中に節操を全うする処女の心の中にも現われております。それら全ての美の本源は神にあります。この美に徹して、この神と合一するよう努めるのであります。

  1. 慈愛

 シェークスピア(=16世紀英国の劇作家)は、「美貌と親切は同居する」と言っております。親切と離れ、愛と離れれば、せっかくの美貌もその美を失います。またやはり英国のに「情愛の薄い女は美貌を欠くに等しい」とあります。ゆえに精神美を得たいと思う者は、必ず慈愛の心を養わねばなりません。

  1. 徳行

 今日、一部の作家や評論家は、「人が道義だの徳行だのに支配されると、窮屈で不自由であって、自由に美に酔い、美を楽しむことができぬ。もはやこの時代に、道徳などする必要を認めぬ」などと申します。これは大変浅薄な考えであって、人が道徳の支配を脱してどうなるかと言えば、今度は情欲の支配に屈するだけです。キリストは「すべて罪を犯す者は罪の奴隷なり」(ヨハネ8-34)とせられました。情欲の奴隷・罪悪の奴隷となって、どこに自由がありましょう。そういう道理をえず、の丸呑み的(=真意を吟味せずにみする)に誤った理屈を立て、いわゆる「新しい女」を気取り、徳を破り、行ないを乱して得意がるのみならず、りの無垢な少女をも誘引して堕落させる者があります。そういう不徳乱行の結果は、数年もれば、が眼にも明らかになるものです。

 女は男の誘惑を恐れますけれども、むしろ女同士の誘惑の方が恐ろしい場合があります。あまり警戒心がないためでしょうか、やすやすと誘惑に乗って、見る見る変わっていくことがあります。ゆえに特に年若い女性は、良友を選んで交わらないといけません。

 現今欧州各国は、戦後(=第1次世界大戦後の)経済の大苦境と、戦争による人口減少と、相対的な女子の過剰と、思想の動揺と、その他種々の原因が重なって風俗がし、男女ともに貞操観念が希薄になり、各々勝手な振舞いをなし、これを矯正するに困難な状態に立ち至っております。この悪風潮が我が国にも波及して、不見識な婦人はたちまちこれに乗せられて、道義の線をれて勝手気ままな行動をし、それが「婦人の自覚」であり、「婦人の解放」であるなどと考えています。実に嘆かわしい事と言わねばなりません。

 もし欧州の婦人が不徳に流されたなら、日本の婦人がこれを正すべく尽力しなければならぬ時であるのに、自ら一緒になって堕落するとは、何たる心得違いでありましょうか。男子の不品行が悪いのと同じく、女子の不品行も悪い。婦人の節操が大切であるごとく、男子の節操も大切であります。私としては、「真正なる婦人の自覚は、ますます己の品行をくし、その結果男子の品行をも潔くし、婦人がますます己の貞操を堅くして、その結果男子の貞操をも堅くする」と信じております。しかし今や現実は逆で、男子がのごとき行ないをなせば、婦人も同じく禽獣並みにならぬと時代遅れになるように思う風潮になっています。

 徳行がいかに婦人の精神美に関係するかについて、古今の金言を挙げてご参考に供したいと思います。

 「美貌にして貞操ある婦人は、神の完全なる妙作なり。天使の真正なる栄誉なり。地上の貴重なる霊性なり。世界唯一のなり」(ヤング)

 「婦人を傲慢ならしめるものはその美貌なり。婦人に賞賛をらしめるものはその徳行なり。婦人を神聖たらしめるものはそのなり」(シェークスピア)

 「徳行と真理とは、最も美しく、最も愛らしき二人の天使なり」(ベーコン)

 「貞操は唯一無価の(=値が付けられないくらい高価な)財宝であって、これを得ようと思えば、も町人の妻と競争せざるを得ず」(シラー)

 「地上にては、有徳で愛らしき婦人に比較し得るべきものなし」(アラビアン・ナイト)

 「徳なき美貌は、香りなきのごとし」(ドイツ)

 「正直ならずば、美貌は(=かす)に過ぎず」(オランダ古諺)

 「恥を知らざる女は、人間中最もしき者なり」(ヤング)

 どうか諸君もご熟考を願います。(続く)