事業と労働(五)

大正十三年十一月十九日

於大阪毎日新聞社

(五)協力

 どうしたら社内がよく協力出来るかと質問されます。

私どもは《誠》の上に立って、《完全》を理想として進む方針でやって来ました。これによって全社員の目指す方向が一つになりますから、誰もが協力し(やす)い。立場がバラバラで、あっち向き、こっち向きしていたのでは(まと)まりません。それを無理に纏めようとすれば、どこかで妥協せざるを得ませんから、その向かい行く先はどこなのか、わかりません。

エマーソン(=19世紀アメリカの詩人・思想家)が「世界は賢者の誠実によって維持される」と申しましたとおり、《誠》は世界のどこへ行こうと、何人(なんぴと)の前に出ようと恥ずかしくないものです。

また《完全》は神ご自身のご性質であって、神の天地経営の目的であります。ですから、完全を理想とし、目標とすることは、神の如き人格となり、神の如き事業を()すことを期するものであって、これほど幸福な修養・勤労はないのであります。

スマイルズ(=19世紀英国の著述家。『自助論(=邦訳「西国立志編」』)は「社会発達の秘訣は協働(きょうどう)にあり」と申しました。多数が(あい)集まって仕事をする以上、同心協力は非常に大切であります。

以上述べました忠実・秩序・敏活・研究・協力の五つを実行するには、やはり忍耐がなくてはなりません。ゆえに次は忍耐について申し上げます。      

(六)忍耐

 先刻、こちらの社長さんにお眼に掛かって、「新聞事業に何年(たずさ)わって来られましたか」と聞きましたら、三十年というお答えでした。一口に三十年と言いますけれども、なかなかそれだけの忍耐は、実地に当ってみると出来(にく)いものであります。私も自分のことを振り返って見ましたが、私が道に志したのは三十六年前でありました。それから今日まで様々の境遇を経過し、途中、随分困ったこともありましたが、「ここで(くじ)けてはならぬ」と思って、耐え忍んで参りました。有形の事業でも、無形の修養でも、忍耐していかなければ出来るものではありません。それは誰でもわかり切ったことでありますが、さて実行となると、なかなか困難なものであります。どうか諸君は、いかに困難であっても実行なさるよう希望致します。

 工場の理想として世界的に考えられておりますのは、「優良な製品を、多量に、安価に、迅速(じんそく)に造り出すこと」でありますが、これは実地にやってみると、なかなか出来(にく)い。これが出来るには、忠実・秩序以下、今までお話しした六つが(そろ)っていくようにすることが大切です。

(七)恭謙

以上の六つが実行出来ましたなら、きっと成功します。それは保証してもよろしいのですが、ただし成功した(あかつき)には、もう一つ大事なことがあります。恭謙の徳を守るということです。明治天皇の『教育勅語』に、「恭謙(に)(おのれ)を持し」とあります。これを忘れぬようにすることが大切です。人は成功すると傲慢(ごうまん)になり、奢侈(しゃし)に走り(やす)いものであります。そうなると失敗・破綻(はたん)が生じて参ります。

今日はこれを「恭」と「謙」とに分けてお話ししてみたいと思うのであります。

日本の歴史において一番堅実な人は誰かと言うに、徳川家康であります。あんな人は他に(るい)がありません。彼はこう言いました、「我に三つの(かい)あり。未だ(こころざし)を得ざる時(=大望を果たせずにいる時)は堪忍(かんにん)(=忍耐)の二字を守り、(まさ)に志を得んとしては大胆不敵の四字を守り、既に志を得ては油断大敵の四字を守るべし」と。

油断大敵の心は「恭」、すなわち心に(つつし)みがあって、それが自然に外にまで現れるくらいになりませんと、そこに油断が入ってしまうものです。古人の言葉に、「百年これを()して足らず、一日これを(やぶ)って(あまり)あり」(出典不詳)とあります。成功するほどの実力ある者ですら、「恭」の心を守らなければならぬのに、いわんや修行もせず、成功もしないうちに「恭」を欠いてしまうようでは、(はなは)だよろしくありません。当今(とうこん)、学校などに行っている青年の中には、惜しいかな生意気な者が多い。私は東京で大学生に精神教育をしておりますが(=学生修道院を主宰)、常にこの事を教えて、誤り()からしめんことを期しております。

「倹」についても、私は実地問題で非常に考えたのであります。(もっぱ)ら物質的な考えで事業を行なえば、古歌にもあるとおり、「欲深き人の心と降る雪は、積もり積もりて道を忘るる」(高橋泥舟)で、金を溜めれば溜めるほど心が汚くなっていく。

金が溜まっても人間が汚くならぬ方法はないかと考えていたところ、私の郷里の、学問も何もない人が、或る時、父の所へ来てこんな話をしました。「自分は、初めは早く金持になろうと遮二(しゃに)無二(むに)働いたのですが、段々、心が(みにく)くなっていくことに気づき、どうしたものかと思案しているうち、ふと教えられました、『()める金を溜めるな、溜まる金を溜めよ』と」。「溜める」と「溜まる」、わずか一字の違いですが、結果は大きく違います。蓄財を本位にすると、義理も人情もなくして冷酷になる。無心に働いて無駄(づか)いを慎めば、金は自然に溜まっていく。そういう金なら、幾ら溜まっても、傲慢にも、冷酷にも、不人情にもならない。そればかりか、その人は貧しかった昔を忘れず、至って謙遜で、村人にも尊敬されておりました。その人の名をつい聞きそびれてしまった事を、今や非常に遺憾に思っております。

(八)喜楽

 以上のごとく話して参りますと、「完全の労働」とは、(まこと)(しち)(めん)(どう)(くさ)い事のようにお感じかも知れませんが、そうではありません。これを続けておりますうちに習慣になり、身についた性質になって、楽にできるようになるのです。「習慣は第二の天性なり」(キケロ)という言葉をお聞きになったでしょうが、私どもも初めの間は骨が折れ(=苦労し)まして、心に惰気(だき)(=怠け心)が起こった時には、扇子(せんす)(もっ)て自分の体を打って警醒させたこともありました。またどうしても克己できないことに苦しんで、短刀で(もも)を刺したこともありました。そんな苦しみを()めましたけれども、だんだん修めていって、ただ今では喜んで人に尽し、楽しんで業を務めるようになりました。

 諸君の中には、もうおわかりになっている人もあろうかと思いますが、この大宇宙には生きた生命があります。それを神と呼んでも、仏と言っても、天と(しょう)しても、名前は何でもよろしい。生きた大生命がちゃんとある。それこそが我々の精神の親であります。ですから、それと結び付いて来れば、親の(ふところ)(いこ)うがごとく、自然に楽になれるのです。

心の本質が変わって、善い事が好きになり、悪いことは嫌いになる。智慧も(ひら)けて、判断に間違いがないようになる。その上、意志が強くなって実行に力が加わり、人を動かす力も(そな)わる。道を踏むことが楽で楽しくなる。孔子は「(これ)を知る者は之を好む者に()かず(=及ばない)、之を好む者は之を楽しむ者に如かず」(論語・雍也)と言いました。

道を楽しんで自然に行なえるようになって来る。それでこれを見る人々は「なるほど、修業も勤労も、決して窮屈なものでなく、むしろ自由なものである」ということがわかって来る。

今日、(ちまた)の新聞雑誌等に書かれてあるものを読むと、やれ「道徳の束縛を脱せよ」だの、「自由を享楽すべし」など、勇ましい事が書かれてある。では実際問題として、人間が道徳の束縛を脱して、自由になったらどうなるのか。情慾の束縛を受けるだけの事であります。情慾に捕われて身動きもならず、真っ逆さまに堕落してしまう。

真正の自由というものは、信仰を養い、修業を積まない限り得られるものではありません。キリストのお言葉に、「(すべ)て惡を行ふ者は惡の奴隷なり」(ヨハネ8-34明治訳)とあります。間違った考えを、よく考えもせず、《胡椒(こしょう)丸呑(まるの)み式》に取り込むと、大切な一生を誤ってしまって、二度と取り返しがつきません。

自然主義もそうです。本来の自然主義は、道を求めて、聖賢の得たような自由の境地に達することを言いますが、似非(えせ)文化人は、ただ飲んだり食ったり遊んだりすることを、自然だなどと言うのです。そんな説に盲従すれば、せっかく人間に生まれ付きながら、動物以下の悲惨な生涯しか送れません。

諸君の中にも、同じくこの二つの傾向があります。二つの自然があって、どちらを選ぶも自由であります。どうか諸君は、自由の意志を以て選択を誤らず、正しくかつ善なる道を(えら)び、喜び楽しんで「自由の勤労」を尽し、真正の自由と幸福とを得られんことを切望致します。

真に不充分でありますが、これで今晩のお話を終ることに致します。(拍手)

本山社長の謝辞 

川合先生には非常なご多忙な中、こんな遠方にまでお()でを()いましたところ、早速(さっそく)にご快諾(かいだく)頂き、今晩、その貴重なご講話を(うけたまわ)りましたことは、(まこと)に本社にとって光栄であり、私の最も喜ぶ所で、深く御礼申し上げます。

長い間の学問のご研究、また実地のご経験上から、非常に適切なるお話を(うかが)うことを得ました。これまた一同深く感銘するところであります。これより我々も、各々の天職を考え、職分を尽して進みましたならば、各自みなこの事業に成功を得ることでありましょう。

ただに一身上の幸福ばかりではありません。本社の事業の発展を(たす)けることもまた、(はなは)だ大きい事と思います。本社の事業を協力一致して()していきましたならば、(ひと)り本社の利益のみでなく、必ずや社会の上に貢献するところ、大であろうと思います。我々は共にこの意を(もっ)て、ただ先生のお話を服膺(ふくよう)する(=深く心に留める)ばかりでなく、これを実地に(ほどこ)して、各々協力して、大いに努めたいと思うものであります。右、一言御礼を申し上げます。