基督の心 第二九四集 「完全の道」通算三〇三号 吾が実験の神(三)

「愛」の一面に固く(こう)して(へき)する時は、

(一)は()(なず)んで罪を犯すことを恐れず、熱心な信仰を有しつつ平然と不道徳を行ない、「このような罪人であればこそ、如来(にょらい)の慈悲に摂取せられる」などとうそぶき、世人に「後生(ごしょう)(ねがい)の者(=阿弥陀如来に帰依して極楽往生を願う者)ほど(ろく)な者はない」と愛想をつかされる者が少なくない。実に慨歎(がいたん)すべきことである。

(二)は古人が「仁に過ぐれば弱」(伊達政宗)と言ったように、情に負けて弱くなる。その結果、言うべきことを断言せず、行なうべきことを断行せず、ただ他人の気持を損じることを恐れ、その結果、いわゆる《徳の賊》たる「郷原(きょうげん)の徒」(論語・陽貨)となり(おわ)る者が少なくない。実に憐れむべきことである。一方に「勝利の福音」(=海老名弾正の著書名)を宣伝する者があるのは、すなわちこの病に対する良薬と言うことができる。

諸君はこの七方から神を観じ、七面から己を省察されたい。

「真」を得ると共に美を味わえば、野卑に流れず、「大」を()ると共に善を体現すれば、醜悪に墜せず、「智」を(みが)くと共に善と美と愛と能とを養えば、冷静・不信・怯懦(きょうだ)(=憶病・意志薄弱)に流れない。「善」を知ると共に大を得れば、頑固・臆病に(おちい)らず、「美」を味わうと共に善を踏めば、放縦(ほうじゅう)に流れず、「能」を得ると共に真と善と美と愛とを有すれば、俗悪・妄争に傾かない。「愛」を有すると共に善と能とを持てば、罪悪と柔弱とに沈まないのである。

思えば私は下根劣機(=劣等・無能)、愚直熱狂、しばしば一方に傾いて安んじなかった。それを活動・力行(りっこう)・瞑想・祈祷して、時には苦境に練られ、時には黙示を(こうむ)り、かくして十有九年を経過して、ようやく一偏の弊(=一方に偏る弊害)を脱れ、七面より神を観じ、神によって一切の矛盾を調和し、以来十二年、ようやく天下先進(=世の先輩たち)の舌頭筆先(=論述や文筆)に惑わされなくなった。

「真」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、ソクラテース、パウロ、ワシントン、クロムウェル、孟子、諸葛(しょかつ)(りょう)(孔明)、関羽(かんう)、王陽明、道元、白隠、吉田松陰、西郷隆盛、押川方義師、および小児の霊化を蒙り、

「大」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、慧能(えのう)、大慧、王陽明、(ほう)太閤(秀吉)、西郷隆盛、押川師の恩化を蒙り、

「智」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、ソクラテース、道元、白隠、諸葛亮、ナポレオン、織田信長、勝海舟、押川師、新井奥邃(おうすい)師の教化を蒙り、

「善」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、孔子、孟子、ソクラテース、エパミノンダス(=スパルタと戦った古代ギリシアの将軍・政治家。)、クロムウェル、劉備(りゅうび)、関羽、(ちょう)(うん)(たいらの)(しげ)(もり)(=清盛の子。武勇に優れ、忠孝の心が(あつ)かった。「孝ならんと欲すれば忠ならず・・・」の葛藤(かっとう)で有名)、楠木正成、中江藤樹、二宮尊徳、押川師、巌本(じょ)(うん)(善治)氏、および父母の恩化を蒙り、

「美」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、および東西の詩人、文士、婦女、小児、天地万物の感化を蒙り、

「能」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、パウロ、ルーテル、ナポレオン、日蓮、ブース、押川師の風化(=徳による教化)を蒙り、

「愛」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、アッシジの聖フランシスコ、劉備、法然、親鸞、蓮如(れんにょ)、押川師、新井師、および父母・朋友・婦女・小児の徳化を蒙った。

これからは時間を作って、さらに精細に修習し、かつ未見の諸聖諸賢に学び、もって己の内実を充実させ、広く天下の同朋に尽さんことを願っている。

回顧すれば我が実践の道は歴々(れきれき)(=はっきり明白なさま)として、寸毫(すんごう)(=ほんの少し)も疑うべき所はなかったけれども、前方を望めば理想の峰は高く雲外にある。そこで(すなわ)ちペテロと共に、「(ただ)この一事を務む、即ち(うしろ)のものを忘れ、前のものに向ひて(はげ)み、神のキリスト・イエスに()りて上に召したまふ召にかかはる褒美(ほうび)を得んとて(これ)を追求む」(ピリピ3-13)と心に誓い、絶えず神に導かれ、喜び勇んで向上し、苦しみ励んで活動することを、ここに改めて期するものである。(了)