山月御教話・続編(十四) 石田秀夫先生筆録

神人合一の境地

昭和十年六月九日 於東京教会

どんな宗教にも極意がある。仏教なら《真如(しんにょ)(=絶対的真理の悟得)の境地》、儒教なら《天人(てんじん)合一》、基督(キリスト)教なら《神人合一》である。ヨハネ伝の『主の祈り』(17-1~26)は、自分が育てた弟子たちが、遂には神と一体となれるようにと天に懇願された祈りである。

パウロなどはその境地に入り、絶対信頼からさらに進んで、神・基督と一体になり、「最早(もはや)われ生けるにあらず、キリスト我が内に在(あ)りて生くるなり」(ガラテヤ2-20)と言った。

「丈夫(じょうふ)は自(おの)ずから冲天(ちゅうてん)の気あり。如来(にょらい)の行処(ぎょうしょ)に向(むか)い行く莫(な)し(=立派な男子には天を突く気概が自然に備わっており、いたずらに開悟者の足跡(そくせき)など踏まぬ)」(十玄談)。

「尋(じん)思(し)す、去りし日、顔は玉の如し。嗟(さ)歎(たん)す、来たる時、鬢(びん)は霜に似たり(=思い返せば、昔は玉のような若々しい顔であったが、悲しいかな、今や頭髪は霜のように白い)」(同)。

「木人(もくじん)は夜半(よわ)に靴を穿(うが)ちて去り、石女(うまずめ)は天明に帽を戴(いただ)いて(=被(かぶ)って)帰る(=いかなる朴念仁(ぼくねんじん)でも散歩に出たくなるような誘惑の夜半もあれば、いかに無(ぶ)風(ふう)流(りゅう)な女でも、朝帰りしたくなるような心(こころ)惑(まど)う一夜もある)」(同)

これは仏法の極意(=開悟の機微(きび))を悟った同(どう)安(あん)常(じょう)察(さつ)(=初期中国仏教の基礎を確立した学僧)の句である。

唐(とう)の太(たい)宗(そう)の次が高宗(こうそう)で、その次が女帝・則天武后(そくてんぶこう)である。この人が国を継(つ)いだが、うまく治まらぬので宗教心を起こし、天下第一等の高僧について学びたいと思い、天下に触(ふ)れを出して名僧・高僧を宮中に招いた。

大勢集まったところで、実際に人物検査をしてみようと考え、豪華な風呂を仕立て、半裸の美女たちを湯女(ゆな)につけて、一人ずつ入浴させた。日頃行ない澄ました僧たちも、これには戸惑って、邪念など起こらぬよう警戒しつつ湯に入った。

そんな中で同安師だけは平常心そのまま、実に天真爛漫(てんしんらんまん)、悠々(ゆうゆう)と湯を楽しんでいた。物陰(ものかげ)からこれを見ていた則天武后は、甚(いた)く感心して、「水に入(い)って長人(ちょうじん)(=背の高い人/徳の優れた人)を見る(=見わけがつく)。我は同安師において真の徳を見たり」と言い、それから謙遜して道を学んだという。

「丈夫は自ずから冲点の気あり。如来の行処に向い行く莫し」

『みあしのあと』という書物を仙台時代に見たことがある。「キリストの足跡をそのまま踏んで進む」という意味で、米国などでよく売れていたという。「如来の行処に向かい行く莫し」はこの逆である。古人の足跡を踏むと言っても、それが形式的・機械的であると、昔と今とは違うし、日本とユダヤ、あるいは米国とでは違うから、そのとおりにはいかない。そういう外面ではなく、その《心》を踏襲することなら、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、誰でもできる。心さえ一つになれば、後は臨機応変にやっていける。

押川先生は非常な大器のため、凡人からは誤解された。しかし兄弟のように交際していた本(ほん)多庸一(だよういつ)さんは、先生の精神がよくわかって、最後まで親しく交流なさった。先生の伝道には力があって、聴く者を感動させた。東二番町角(かど)の東本願寺別院が売りに出され、先生がそれを買い取ろうとなさった時、一老婆が出て来て、何十年間か風呂(ふろ)焚(た)きをして貯めた金・五円(=約10万円)を献じた。するとそれに感動した人々から次々と寄付が集まり、買収は成功した。そこを会場に日曜集会をお始めになると、他の教会からも人々が聴きに来るので、信者を獲られた形になってしまった牧師たちが、悪口を言うようになった。

当時の宮城県知事・松平康(やす)信(のぶ)という人が、その噂(うわさ)を聞いて、「自分も話を聞きたいから、自宅へ来てくれ」と言って来た。先生は応じられなかった。三度頼んでも来られないので、その人は怒ってしまって、「貴公の信ずる基督とやらは、四方を飛び回って教えを説いたというに、基督ほど偉くもない貴公がどうして伝道に来ないのか」と言った。先生は「基督は基督、私は私」と言われた。まさに「如来の行処に向かい行く莫し」である。

小(お)此(この)木(ぎ)信(しん)六(ろく)郎(ろう)という人(=医学博士)が信者になったのも、そうであった。氏は当時福島にいて、多くの牧師が「あれを信者にして、自分の名を揚げよう」と押し掛けたが、一向に靡(なび)かない。そんな時に、たまたま押川先生が福島に来られたので、「名は聞いているが、実際はどんな人間なのか、一度会ってみるか」と、軽い気持で出掛けて行った。行くと、「ただ今、食事中である。少々待たれよ」と言われた。「俺が何(なに)様(さま)か知らんのか」と思いながら待って、ようやく話を聞く事ができ、たちまち感動して、その場で信者になったということである。

また先生の教え子に吉田という人がいて、非常に熱心に布教して回って、何人も信者を作るのであるが、先生は「吉田が掬(すく)ってくるのは雑魚(ざこ)ばかりだ」と苦笑しておられた。

こちらの人格が小さいと、小さい人間しか集まって来ない。道を説(と)く前にまず、人格を造らねばならないのである。

「尋思す、去りし日、顔は玉の如し。嗟歎す、来たる時、鬢は霜に似たり」(前出)

釈迦や孔子のような人物になりたいと思い、大志を懐(いだ)いて故郷を出た時は、まだ齢(とし)若(わか)く、顔も玉のように輝いていたが、如何(いかん)せん、今や髪も霜のごとき老人になってしまった。これは私自身、身につまされる(=人ごとではないと感じられる)ものがある。「キリストの心を心としたい」(ピリピ2-5)と願って四十七年間修行して来たが、未(いま)だ容易なものではない。しかし、そうかと言って、自分免許して《卒業信者》になるわけにはいかぬ。それでは宗教を粗末にすることになる。

「木人は夜半に靴を穿ちて去り、石女は天明に帽を戴いて帰る」(前出)

木人や石女のように、どんなことがあっても動じない人格を養わねばならない。

かの大灯国師は、

「雲よりも上なる空に出(い)でぬれば、雨の降る夜も月を見るかな」

と詠(えい)じた。私はこれを富士山で実地に経験した。

宗教の深い所に行くと、常識以上になる。聖書を見るにも、俗世の雨の下で見るのと、雲上で見るのとまるで違う。下界にいて、雲間に洩れる光を垣間見(かいまみ)て、「啓示(けいじ)(=神の示し)を受けた」と大騒ぎする。一枚上に出れば、いつでも真理の太陽は輝いているのである。抜けるか抜けぬかは紙一重であるが、抜けさえすれば、下の人の想像できぬことがわかる。

「心の清き者は福(さいはひ)なり、其人(そのひと)は神を見ることを得(う)べければ也(なり)」(マタイ5-8明治訳)

信仰のない人は、泥(どろ)田(た)の中に住みながら、それに気づかない。たまたま良い先輩に会って、心身を洗われて綺麗になって喜んでいると、いつの間にかまた元の泥田に帰ってしまう。

泥田に居る限り清められない。せめて小川なりとも、水の流れている所に出なければならない。しかし小川で水(みず)浴(あ)びして綺麗になったと喜んでいてはいけない。その先にはもっと大きな本流がある。そこを舟にでも乗って下れるなら、どんなに楽しかろう。神に任せ切った信仰(信頼)とは、それである。

川の上流・中流・下流はみな景色が違う。上流の方が、早瀬や奇岩などあって人目に立ちやすい。中流以下は坦々(たんたん)とした眺めになる。河口に差し掛かると、川幅が広がって両岸も見えず、河なのか海なのか判じがたいくらいであるが、水を一口飲んで見ればすぐわかる。一たび大海の中に出てしまえば、多少の濁り水が流れ込んでも、泰然(たいぜん)(=悠々(ゆうゆう))として浄化できる。

そこを間違えて、まだ身は上流にありながら、「清(せい)濁(だく)併(あわ)せ呑(の)む」などと粋(いき)がっていると、たちまち自分が濁ってしまって、二度と立ち戻れなくなる。ゆえに修業の旅路は、あくまで一歩一歩謙遜に歩まなくてはならない。パウロの言ったとおり、「後(うしろ)のものを忘れ、前のものに向(むか)ひて勵(はげ)み、標準(めあて)を指(さ)して進む」(ピリピ3-13~14)のである。

私は今年六十九歳であるが、十六歳の若者にも負けぬ向上心を持っている。これまでは、大海の水を貝殻で掬(すく)う程度の事しかできていないが、通(とお)って来た跡は、世界中の学者が挙(こぞ)って批判しようが、びくともせぬ覚悟である。

「己(おのれ)をすて、己(おの)が十字架を負(お)ひて、我に從(したが)へ」(マタイ16-24)

《合一》とは、己を捨てて無になることである。しかしなかなか己は取れないものである。信仰上の経験を積んだら積んだで、積んだこと自体が《己》となって、進歩を妨げる。

真に己がなくなった時、初めて大きくなれる。己がなくなった所に神が入って来られるからである。

具体的言えば、己を無にして、そこに《完全の信仰》を注入する。すなわち、悔改・信頼・希望・愛慕・学習・合一である。ところが欧米の基督教は、悔改と信頼をもって信仰の全てとしているから、今日のような無力な宗教になってしまった。そして個人的信仰の範囲ならまだしも、英国などは国策として日本と支那(しな)(=中国)を戦わせようとしている。基督教国を自任しながら、そういうことをする以上、日本にはそれを指導する使命があると思う。

およそ個人・家庭・国家・世界全体が、信仰においても、政治においても、外交・経済においても、基督の心を心とするようにならねばならぬ。その第一歩として、しっかりした後継(こうけい)を作り、何千年経(た)ってもこの道が行なわれるようにしたいと思う。それには我意(がい)を立てず、言う事・行なう事を基督の心を以(もっ)てし、言葉の伝道・行為の伝道でなく、人格による伝道ができるような人材を育てたいと願っているのである。

その上に向上・奉仕があるのであるが、それについては明晩お話しする。

神人合一の境地(続き)

昭和十年六月十日夕 於学生修道院

○向上・信頼

 信頼の人は、信頼という事を非常に難しく考えるが、信頼し切ってしまえば、信頼について悩むことはない。子が親を信頼するのに、何の苦労もないはずである。

○不断の向上

「人生の目的は神の如(ごと)くなる事なり。神に追従する霊魂(=精神)は遂に神の如くなるに至らん」(ソクラテース)

「汝らの天の父の全(まった)きが如く、汝らも全かれ」(マタイ5-48)

「吾(われ)(は)、十(じゅう)有(ゆう)五(ご)にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(みみしたが)う(=人の言葉がそのまま受け取れる)。七十にして心の欲する所に從(したが)えども矩(のり)を踰(こ)えず(=道に外れない)」(論語・為政)

「唯(ただ)この一事を務(つと)む、即ち後(うしろ)のものを忘れ、前のものに向(むか)ひて勵(はげ)み、標準(めあて)を指(さ)して進む」(ピリピ3-13~14)

「我等はみな面(かほ)帕(おほひ)(=ヴェール)なくして鏡に映るごとく(明瞭に)、主の榮光(えいこう)を見、(我が身も)榮光より榮光にすすみ、主たる御靈(みたま)によりて主と同じ像(かたち)に化(か)するなり」(コリント後3-18)

昨日の続きとして、「不断の向上」について話してみたい。

仏法の極意は禅が一番深い。禅では、道を修める人を仏(ぶつ)陀(だ)・菩薩(ぼさつ)・縁(えん)覚(がく)・声聞(しょうもん)の

四段階に分けている。このうち縁覚と声聞は自分だけ悟ればよいとする《自利》の修業。菩薩は「上(かみ)は道を求めて進み、下(しも)は一切衆生を済(さい)度(ど)せん」とするもので、《自利・他利》の修業。その上に位(くらい)するのが仏陀で、覚(かく)行(ぎょう)円満(=修業と悟道が円満に成し遂げられること)の最高位にして、この上に進むべき境界はなく、むしろ降(くだ)り来(き)たって衆生の済度に当るのみである。

ゆえに禅で悟ると「人天(じんてん)(=人間界と天上界)の導師」などと自任して、集会の座などでは、(当然の如く)自分から一番上座に就(つ)く。釈迦(しゃか)も大迦葉(だいかしょう)(=釈迦の後継者)も達磨(だるま)も仏陀であり、全部で五十人以上いる。私どもから見て、あまり感心しないような人でも、自分では仏陀だと言っている。

この区分から言うと、基督(キリスト)教徒はみな上に《天の父》を仰いでいるから、未(いま)だ最高位に達しておらず、せいぜい菩薩並みの覚者(かくしゃ)ということになる。従って鎌倉円覚寺の釈宗(しゃくそう)演(えん)(=「仏陀」を自称した)でも、基督以上の偉い存在となる。天なる神を持たない宗教はそうなる。

座禅して悟って絶対境に入り、自身が天地一杯の存在となって、もはや相対(あいたい)するものなし、それが仏法の極意である。相対する者がないから、下に降(くだ)って民衆を済度するしかない。すなわち《合一》を最高位に置いたのである。

然(しか)るに私の宗教は《完全》を最高位(=至高の神)に置いているから、何度悟っても、まだ無限の《向上》が待っている。

「我は全能(ぜんのう)の神なり、汝(は)、我が前に歩みて(=進み出て)完全(まった)かれよ」(創世記17-1)

エホバがアブラハム(=イスラエルおよびアラブの始祖)に告げられたこの言葉を、基督は『山上の垂訓』で私どもにお教えくださったのである(マタイ5-48)。

「異教徒(=非キリスト教徒)の中で、最も道と真理とに近づいた者は釈迦牟(む)尼(に)である」と言われている。しかし神の完全から言うと、足りないところがある。少なくとも知識の上から言っても、現代の我々よりは不完全である。

完全を目標にして進めば、永久に進むことができる。私など、三十年修行して、なおパウロに及ばないところがあり、釈迦や孔子に及ばないところがある。我々が悟ったと言っても、宇宙の完全から見れば無にも等しい。「葦(よし)の随(ずい)(=狭い視野)から天を覗(のぞ)く」と言うが、それくらいにしかわかっていない。そこで絶対謙遜の心が起こり、どこまでも進みたという念が湧くのである。ソクラテースがあれだけ真理に迫ったのも、この精神があったればこそである。

「人生の目的は神の如(ごと)くなる事なり。神に追従する霊魂は遂に神の如くなるに至らん」(前出)。《追従》とは後を付き従っていくことである。子が親を追いかけていく、親を慕うその心に邪心はない。どこまでも神を追い慕っていけば、いつか神の如くなれる。そういう心を持っている方(ほう)が幸福である。

神を追い慕っていけば、やがて心に何も無くなって、綺麗な精神が天地一杯になる。神が我々の《私我》を取り去ってくださるのである。そのおかげで我々は神と融合して一つになり、神を親として尊び、信じ、崇(あが)め、学んで、不断に進歩していくのである。

この点において、私は(浄土)真宗の説く《安心(あんじん)》に与(くみ)しない(=賛同しない)。安心を得て、そこで進歩が止まってしまうからである。

私は《完全の道》を工場に応用して、二万人の人が(停滞することなく)絶えず進むようにした。それには上に立つ者の教育が大事である。山に登る時、先に立つ者が足踏みしていたら、後の者は進めない。

これを米沢(よねざわ)で話したら、陽明学(ようめいがく)(=明(みん)の王陽明(おうようめい)が唱えた実践的儒学)を学んでいた歌川(うたがわ)という人が一番に感心して、「聖人たらんと志(こころざ)して多年、論語や孟子を研究して来たが、今回《神の完全》という事を教わった。聖人になれるかどうかはわからないが、少しでも近づきたいと思う」と言われた。

人間には先入主(=先入観)というものがあって、先に教わった事が、どうしても残って離れない。音楽の教師などが言うには、「初めに悪い癖が付くと、それを直すのに一苦労(ひとくろう)する」そうである。そうであればなおさら、初めから善い教えを受けることが何より幸せである。その点、最高・最大の理想を示されたのは基督である。

孔子は基督以前の人であったので、尭(ぎょう)、舜(しゅん)、文(ぶん)王(のう)、武(ぶ)王(おう)、周(しゅう)公(こう)(=いずれも古代中国の聖天子・名君主)を理想として修めた。(次号に続く)

実修実行の七要項

大正15年4月15日 於・工務主任会

 (一)完全を理想とする

(神)(人)

絶大…大

至健…健

真誠…誠

神{至善…善}人

全智…智

全能…力

純美…美

聖愛…愛

 たびたび話す事であるけれど、何回聞いても、ただ理解しただけで終わって、それが実際の理想にならなければ何の意味もない。今日はこれが諸君の目標となるよう話す積りである。

 社訓の初めに掲げてある《神》(=天道)は、(前掲の表示の)上段の如き性質を持っており、それを受けて人は、下段の如き性質を与えられている。《完全の神観》とは、このように神を各方面から偏(かたよ)らずに見る事である。

 ただし、これを雛壇(ひなだん)の内裏(だいり)雛(びな)の如く飾っておいても仕(し)様(よう)がない。これを自身の心に修めて、活(い)かして用いて行く事が肝要である。それは至る事のできない遠い理想などでは決してない。

孔子の弟子の子(し)貢(こう)は、師の人格を評して、

 「夫(ふう)子(し)の及ぶべからざるや、なお天の階(かい)して升(のぼ)るべからざるが如し(=私が先生に及びもつかないのは、幾ら梯(はし)子(ご)を掛けても天には昇れないのと同じである)。夫子にして邦(ほう)家(か)を得ば、所謂(いわゆる)これを立つれば斯(ここ)に立ち、これを道(みち)びけば斯に行(したが)い、これを綏(やす)んずれば斯に来たり、これを動かせば斯に和(やわ)らぐ(=もし先生が一国を治められたら、いわゆる『立たせれば立ち、手を引けば歩き、あやせば懐(なつ)き、励ませば喜ぶ』というふうに自由自在になる)。その生や栄(さか)え、その死や哀(かな)しむ。これを如何(いか)にぞそれ及ぶべけんや(=だから生きておられれば国は栄え、亡くなられれば民は嘆く。そんなお方にどうして私が及び得ようか)」(論語・子張)

 と言った。けれどもいかに聖人の境界といえども、決して到る能(あた)わざるというものではない。顔(がん)回(かい)などは既にそこに入っていた(=「われ回と言うこと終日、違(たが)わざること愚の如し[顔回は私と一日中話していても少しも異論をさし挟まず、まるで愚者のようだ]」同・為政)。社訓は決して「階して昇るべからざる」ものではなく、日々積み重ねて行けば誰でも到れるのである。

 なぜなら諸君の心にも、この大・健・誠・善・智・力・美・愛というものは備わっているからである。誰でも小よりは大を、病よりは健を、悪よりは善を望む事からも、それはわかる。そういう望みはどこから来るかと言えば、父なる神の大への憧(あこが)れから来るのである。人が健康を望むのは、神には病(やまい)というものがない。ゆえに人もそうなりたいと思うからである。誠も智も力も美もみな神から来て、諸君の魂がそれを求めている。また神の方でも、常に人間を上へ引き上げたいと望んでおられる。

 そして神と我々の間には、誰でも登る事のできる無形の梯子(はしご)が掛かっている。それが日々の祈祷・瞑想である。従来の宗教は、ただ「悔い改め」しか説いて来なかったが、神からは教育の御手(みて)が降(くだ)り、人には修養の積み重ねがある。これを一段一段、倦(う)まず弛(たゆ)まず昇って行けばよいのであって、決して子貢の言ったような、絶望的な懸隔(けんかく)(=かけ隔て)が横たわっているわけではない。

基督(キリスト)は言われた、

 「我まことに實(まこと)に爾曹(なんぢら)に告(つげ)ん、天(てん)ひらけて神の使(つかひ)等(たち)(が)人の子(=イエス)の上に陟(のぼり)降(くだり)するを見ん」(ヨハネ1-51明治訳)と。

 聖書の記者は詩的に記しているが、事実、無形においてこのとおりのものである。我々は日々、地上の低い事に捉(とら)われているので、こういう壮大な状景を理解する事が難しくなっているが、事実は事実なのである。

近来、宗教上の事について尋ねる人が多く、先般も大阪の中等学校の校長が来て、「宗教の事をわかり易く話してくれ」と言うので、大体今のような事を話しておいた。

(一)志気しき)を大にす

人は大抵、小志を懐(いだ)いて小人(しょうじん)(=小人物)で終わってしまう。私と同学で、学生時代には「将来は国家のために尽力したい」などと言っていた男も、五年も経(た)って会って見ると大変に変わっていた。学校では古聖賢のことなど熱心に学んでいたが、社会に出て家庭など持つと、金銭などの俗事で頭が一杯になってしまって、月給が一円でも高ければ、そちらに靡(なび)いてしまう。結局、利益や名誉に埋没して小さくなってしまうのである。

 どんな山も、最初の一歩を踏み出さなければ登れない。我々は根底を信仰の上に置いて、志気(=大事を成さんとする意気込み)を大にして、一歩一歩進んで行くのである。山(やま)鹿(が)素(そ)行(こう)(=江戸前期の儒学・兵法学者)が嘆息して教えた言葉がある。

 「志気とは大丈夫(だいじょうふ)(=大人物)の志す所の気(き)象(しょう)(=心情)を言えり。大丈夫たらん者(が)、小さき所に志を置く時、その為(な)す所、学ぶ所、みな至って微(び)にして、大なる器(うつわ)に非(あら)ざるなり。道に志す時、管仲(かんちゅう)、晏(あん)子(し)(=共に中国春秋時代、斉(せい)の賢相)が輩(はい)(=管仲・晏子などという者たち)の功烈(こうれつ)(=大なる功績も)、なお為すに足らず(=行なうまでもない)と思うは、曾(そう)子(し)(=孔子高弟)(や)、孟(もう)子(し)の志気なり。もし小成(しょうせい)に安(やす)んじ、気(き)節(せつ)の全きを得ざる時は(=気概と節操を完全に働かせる事ができないのは)、器(が)常に瑣(さ)細(さい)にして器(き)識(しき)(=度量と見識)の大用(だいよう)を知らざるなり」と。

 管仲は斉(せい)の桓公(かんこう)を輔(たす)けて覇(は)業(ぎょう)(=天下統一)を成さしめ、東洋の政治上に一大変革を起こした。世界的にも知られ、その著『管(かん)子(し)』(=今日では、菅仲より後代の作とされている)は西洋人なども研究している。諸葛孔(しょかつこう)明(めい)(=中国戦国時代、劉備(りゅうび)玄(げん)徳(とく)の覇権を支えた賢臣)も自らを管仲、楽(がっ)毅(き)(=同じく中国戦国時代の武将)に比した(=勝(まさ)るとも劣らぬと考える)というくらいである。晏子(晏(あん)平(ぺい)仲(ちゅう))は同じく斉の霊公、荘公、景公を輔佐した賢人宰相である。

 この二人(=管仲、晏子)の働きは、我が国における源頼朝や徳川家康以上である。時の禍(か)乱(らん)を救った(=乱世を鎮(しず)めた)事においては慥(たしか)にそうである。しかし孔子の道を伝えた曾子は管仲を褒(ほ)めなかった。孟子もまた道が行なわれないため、世を退(しりぞ)いて書を著わした。これらを管仲、晏子の働きに比すれば、孰(いず)れが後代に益するところ大であったかは言うまでもない(=管仲・晏子の方が頼朝・家康よりもずっと大きく後世に貢献した)。

今日の我々ならば、かの維新の三傑(=西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)にも勝(まさ)るくらいの大きな理想を実現しなければならない。これを大言壮語と言う人がいるかも知れないが、小成に安んじていては、そこで止まってしまう。志気は大に、理想は高く、神と強い連携を付けるようにしなければ、大器大用はならない。

「そんな事が事業の実務と何の関係があるのか」と思う者がいる。疑う事は修養上に非常な妨げとなる。ヤコブは、

「疑ふ者は風に吹かるる籾殻(もみがら)の如し。斯(かく)の如き者は、神より何物も受くること能(あた)はず」(ヤコブ1-6~7)

と警告している。これを他(ひ)人(と)事(ごと)と思ってはならない。試みに、自ら努めてみよ。従来できなかった事ができるようになる。それで神の絶対無限の智と力がわかって来る。この消息(=深い真理)が少しでもわかった者のいる会社は、自(おの)ずと成績が良いのである。

事業は精神である。某戦術家によれば、先般(=第一次大戦)のドイツの敗因は、ロシアの思想戦略に嵌(は)まって、厭戦(えんせん)気分が広がってしまった事にあるという(=キール軍港の水兵反乱など)。ヒンデンブルクやルーデンドルフのような名将を以(もっ)てしても、これを如何(いかん)とも仕様(しよう)がなかった。

(二)自らを責める

これも全て実験済みの事であるから、その積りでお聞き願いたい。私は三十八年間にわたって教育に携(たずさ)わって来た。その間、十数万の人を教えてみてわかった事は、人は虚心でないと間違った方向へ進むものである。せっかく善い教えを聞きながら、日常においては自分の《我(が)》を立てるからいけない。自分勝手な標準を設けて、それに達しない人を責める。かつてのパリサイ人がそうであった。彼らは次第に冷酷になって、とうとう基督(キリスト)まで十字架に懸(か)けてしまった。これほどの大罪はない。

 真の修養を積む者は、人を咎(とが)めずして自分を責める(=自らを反省する)。あたかも明鏡に向かって厳粛に威儀を正すが如くである。自省を怠って、他人の欠点のみ非難するのは、まさに「禍(わざ)害(はひ)なるかな」(マタイ23-13他)である。

 従来、世人は皇室の永く栄えます事を軽く考え、ただ「万世一系の血筋だから」くらいに思っているが、そこにはもっと深い意義が存している。明治天皇は、「天佑(てんゆう)(=天の加護)を保有し、万世一系の帝(てい)祚(そ)(=帝位)を践(ふ)める(=継承して来た)・・・・」と仰せられている。この《天祐》という信仰をお持ちになる事を知らなければ、皇室のご繁栄(はんえい)の所以(ゆえん)(=理由)を語る事はできない。歴代の天皇は深い信仰心を持って、天に対し、神に対して、自ら徳を積み、身を修めて来られたのである。

花園(はなぞの)天皇(=鎌倉後期、第95代天皇)のお言葉に、

 「朕(ちん)(=私は)常に己を責めて臣(しん)(=臣下)を責めず、故(ゆえ)に天理(=天道を)よく知りぬ」 

 とある。西(さい)郷(ごう)南(なん)洲(しゅう)も「己を尽して人を咎(とが)めず」(遺訓)と言った。己を責める精神があればこそ、天道がわかる。たとえば工務の実際に通じた諸君が、自ら改良を成し遂げたら、それを人にも示して改良させる事ができる。

 宗教改革を断行したマルチン・ルーテルは、自らを責めて(=良心が咎(とが)めて)非常に苦しんだ。修道院の中で気絶した事さえある。そんな強い自責の精神あってこそ、あの宗教改革は成されたのである。

(三)人の善は学び、人の非は救う

これも言うは易(やす)く、行なうは難(かた)い。人には嫉妬心があって、他の善を素直に喜ばない。それでは協力一致はならない。私の郷里・甲州も協力一致のできない国柄(くにがら)であって、個人経営の企業はたくさんあるが、株式会社は成立しないのである。雨宮(あめみや)敬(けい)次郎(じろう)氏、根(ね)津(づ)嘉(か)一(いち)氏(=共に山梨県出身の実業家)なども、故郷では余り評価されていない。人の成功は褒(ほ)めず、失敗には興味を持つという人心からである。そういう人はこの郡是(グンゼ)にも見られる。それでは人は進歩せず、逆に退歩してしまう。新聞の三面記事を担当する記者なども、普段から社会の底面に出入りしている所為(せい)か、あまり人格高潔な人物を見た事がない。

 「(君子は)人の悪を称する(=あげつらう)者を悪(にく)む」(論語・陽貨)

「夫(ふう)子(し)(=孔子)は人の一善を見て百(ひゃく)非(ひ)を忘る」(孔子家語)

人の悪を見て謗(そし)らず、反(かえ)ってそれを救うのが愛である。それでこそ人を教え育てる事ができる。然(しか)るに事実はその逆で、「凡人は人の一非を見て百善を没す(=忘れる)」である。

人の心は千変万化(せんぺんばんか)する。昔、人形芝居というものがあって、箱の中に様々な面相の人形を入れて置き、時に応じ、話に応じてこれを出して演ずる。人の心もこれと同じで、鬼も出れば仏(ほとけ)も出る。時に聖人が迫害されるのもその為(ため)である。

 アメリカ辺(あた)りでは平民主義を尊んでいるが、それは本来、徳や智や力や富の恩恵に、みんな平等に与(あず)かろうというものであって、決して私欲に従って国全体を引き下げようというものではない。フォード(=米国の自動車王)は、「能力の低下を来たす民衆主義は無意味なり」と警告している。

近時、我が国においても無産階級代表の事(=無産政党が帝国議会に議席を得たのは昭和3年の普通選挙実施以降)を力説する動きがあって、殊(こと)に政治界に多年の経験を有している犬養(いぬかい)毅(つよし)氏(=政友会総裁。昭和7年、五・一五事件で殺害された)などもこれを口にしているが、それは僻論(へきろん)(=偏った議論)というものである。世間は有産・無産ともに無くならぬのが事相(=実相)である。それゆえ、「管仲・晏子の巧烈」に勝る理想を実現して、有産・無産ともに救う事が肝要であり、それには基督(キリスト)の言われた、「牧(か)ふ者(=飼い主)なき羊」を救う事が必要なのである。

(四)古武士の覚悟

今の若者は何事も「古い、古い」と否定するが、そういう考え方自体が古い。イタリアのムッソリーニは会津(あいづ)白虎隊の事績を調べて、非常に感銘を受けたという(=古代ポンペイ神殿の石柱が顕彰碑として贈られ、現在も飯盛山(いいもりやま)の麓に建っている)。英仏でも、物質文明の行き詰まりを感じて、東洋古代の精神教育を研究し始めた。ところが肝心の日本が、そういう精神を失ってしまったのである。いま時の花見客の醜態など見てもわかる。

 戦国の世の三(み)河(かわ)武士は武士道の精神を残していた。家康はそれに支えられて大事を成し遂げたのである。かつて秀吉から「儂(わし)は粟田(あわた)口(ぐち)吉光(よしみつ)(=鎌倉後期の刀工)の剣を持っておるが、貴殿は何をお持ちかな」と問われ、「名刀はございませぬが、命を惜しまざる者・三百騎がおりまする」と答えた。秀吉は黙然(もくねん)としたという。

 家康麾下(きか)に矢(や)田(だ)作(さく)十(じゅう)郎(ろう)と阿(あ)部(べ)四(し)朗(ろう)五(ご)郎(ろう)という者があった。矢田は槍の名手で、その兜には鯉の飾りが輝いており、それが戦場に現われるだけで敵は恐怖した。ある時、盟友の阿部が、「その兜を借りて一働きしたいと思うから、ちょっと貸してくれぬか」と言った。矢田は「そなたの如き腰抜けには貸せぬ」と断った。「腰抜けとは聞き捨てならぬ」「兜を『くれ』と言うなら、喜んでくれてやりもしようが、『貸せ』と言うのは、生きて帰る積りであろう。戦場に向かう者が、予(あらかじ)め生還を期するようでは、腰抜けでなくして何(なん)ぞや」。阿部は深く感じて言葉もなかったという。

 会社の根本精神も、この真剣味(しんけんみ)を以(もっ)て初めて知る事を得る。文武の道は一(いつ)(=同一)なりである。

(五)古賢人の跡(あと

北条時頼(ほうじょうときより)(=鎌倉第5代執権。隠居後は諸国を巡(めぐ)り、『鉢の木伝説』を残す)は禅において修めた賢人であった。

 (話が横道に入るが、過日、豊橋のある人が私を評して、「宗教を世事に利用している」と言った。宗教に生命が籠(こ)もっておれば、[時頼の禅と同じく]自然にその精神が教育にも事業にも入って善くなるものであり、またそうでなければ、宗教の価値はないのである。)

この時頼が見出した人材の一人に、青(あお)砥(と)藤(ふじ)綱(つな)という人(=鎌倉幕府引付(ひきつけ)衆(しゅう)[=裁判官]の一人。川に落とした十文銭を五十文の松明(たいまつ)を焚(た)いて探させた伝説の持主)がいる。この人が未(いま)だ抜擢されない頃、曳(ひ)いていた牛が川に溲(そう)する(=放尿する)のを見て、これを叱(しっ)して曰く、「汝もまた北条公の宣(せん)旨(じ)(=通達)に倣(なら)うか」と。これを伝え聞いた時頼が、藤綱を召し出してその真意を問うた。藤綱は答えて曰く、「期(とき)はまさに旱(かん)し(=旱魃(かんばつ)の最中であり)、民は渇きに苦しむ。この期に当たって公の宣旨は、余りある所に施(ほどこ)し、飢(き)民(みん)には届かぬ。これぞまさしく牛が水に溲するに異(こと)ならず」と。これを聞いて、時頼は大いに己の不明を恥じた。

それから間もなく、「神(しん)夢(む)の告ぐる所に依(よ)りて」藤綱に任官の命(めい)が下った。藤綱はこれを謝絶して曰く、「神託によりて荷(か)禄(ろく)さるる(=俸給を貰う)なら、他日、神託によりて斬首さるるやも知れぬ。左(さ)様(よう)な仕官は平(ひら)に御免(ごめん)仕(つかまつ)る」と。いかにも清廉(せいれん)潔白の人であった事がわかる。

(六)油断と戒心

 「禍(わざわい)は隠(いん)微(び)(=目立たぬ中)に蔵(かくれ)れて、人の忽(ゆるが)せ(=疎(おろそ)か)にする所より生ず。故(ゆえ)に明(めい)ある者は未(いま)だ萌(きざ)さざるに見、智ある者は未だ形(あら)われざるに避(さ)く」(司馬相如)

 これは漢代の名臣にして、天子をも諌(いさ)めた司(し)馬(ば)相(しょう)如(じょ)の名言である。忽せの心は成功の慢心に潜(ひそ)む。家康は関ヶ原の合戦後、床几(しょうぎ)に坐して兜(かぶと)の緒(お)を締め直した。

原料科は諸君の働きによって改良されたが、今後もますます謙遜して研鑚(けんさん)に励まれたい。

(七)絶えず進歩すべし

 不断の努力がいかに大切か、これについて東西二つの好例がある。一つは魯(ろ)粛(しゅく)(=中国三国時代、孫権(そんけん)の右腕と謳(うた)われた名将)と呂(りょ)蒙(もう)(=同じく三国時代の猛将。関羽を討ち取った事で有名)である。呂蒙は呉の孫権の家来で、若い時は武勇一点張りの若武者であったが、孫権に勧められて学問に励んだ。幾年かの後、魯粛は呂蒙に会って驚いた。「汝は旧(もと)の呂蒙ならず」(=「呉(ご)下(か)の旧(きゅう)阿(あ)蒙(もう)」という言葉はこれに由来する)。すると呂蒙は曰く、「士(し)(=男子たる者)(は)別れて三日(経(た)てば)、即ち刮目(かつもく)(=目を擦(こす)って注目する)して相待(あいたい)すべし」と。

 いま一つはゲーテとシラー(=共に18世紀ドイツの文豪)である。二人は無二の親友であったが、ゲーテはシラーを評して、

 「一週間会わずして彼に会えば、将(まさ)に別人に接するの感あり」

 と驚嘆した。天才は天才を知るものである。

修養上の変化もまた同じ、さすがに一週間では感じられないが、三年も経(た)って旧友に会えば、まるで別人の観があるものである。停滞した者は何年経っても変わらないが、不断に進む者は年々歳々変わる。

特に人を導く者は、常に進歩していないと、誰も着いて来なくなる。信仰・識見・徳・力、全て不断に進んでこそ、人を進ませる事ができる。人は電気仕掛けで動くものではない。人を動かすものは人の誠である。まず自らが進んで、人も進む。まさにそれこそが実修実行という事である。

山月先生文集(145)

山月子『女学雑誌』記事(十九)

  帰京の日

三月八日、寝(いね)ること暫時(ざんじ)、起きて(家を)出(い)づ。長弟と共に九歳の幼弟を伴う。親戚の老夫婦二名(が)、送りて途中に到る。老婦(は)まず別れんとして涙を流し、声を曇らせぬ。三本松地蔵堂の辺(あたり)に到りて老夫に別る。御殿場(ごてんば)停車場まで八里の間、長弟と代わる代わる幼弟を背に負う。

行く行く見る芙蓉(ふよう)の山頭(さんとう)(=富士山頂に)、僅(わず)かの雲(が)生(しょう)ずるを。雲は次第に動きて風となる。凄然(せいぜん)として(=寒々として痛ましいさま)寒く、凛乎(りんこ)として(=寒気の身に沁(し)みるさま)烈(はげ)し。帽を飛ばさるること二度。籠坂(かごさか)峠(とうげ)を越ゆる時は、雲凝(こ)りて(=凝結して)雪となる。四顧(しこ)(=周囲・四辺は)青天(にして)、頭上独(ひと)り(=のみ)雪(が)降る。芙蓉の山(は)、尋常(じんじょう)(=普通)の山に非ず。而(しか)して尋常ならざる光景を現出す。

背に負いし幼弟は、時々あどけなき事を言いて我等を笑わしめぬ。黙せしかと思いて見れば、熟睡せる時なり。「お前(=長弟)も一緒に東京へ行って、弟(=末弟)に獅子(しし)(=ライオン)を見せてやると宜(よろ)しいが」と言いしも、停車場に着せる時は、しきりに家に帰りたしと言いぬ。泣くばかりなる面影(おもかげ)を見れば、憐れに堪えぬまま、停車場の待合室内にて厳かに黙祷し、静かに熟考し、「幼弟を伴わざること神の御心(みこころ)なり。今は独(ひと)りにて、智に徳に一層(己を)研(みが)くことこそ神の御心(みこころ)なるべし」と思いぬ。

即(すなわ)ち(=そこで)その旨(むね)を長弟に話し、更に己の今後の決意を語り、彼の将来の心得につきて談ず。感(は)鬱勃(うつぼつ)(=胸の思いは高まり)、長弟(は)落涙して巾(きん)(=手拭)を湿(しめ)す。我も悲哀に堪(た)え難(がた)かりしが、人の居(お)る処(ところ)(ゆえ)、辛(かろ)うじて聖書に眼を注(そそ)ぎて涙を殺しぬ。ただ書を見る眼の、少しも文字を捉(とら)えざりしは是非(ぜひ)なき次第(=仕方のない成り行き)なりき。

待つこと長時、汽車未(いま)だ来らず。長弟は足傷(いた)めばとて、辞して幼弟の手を引き旅宿(りょしゅく)に向かう。凛冽(りんれつ)たる(=寒気厳しい)寒風(が)、雪を吹き来(きた)る。我(は)、粛然(しゅくぜん)として(=静かに)見送る。悄々(しょうしょう)として(=寂しげに)去る二弟の後ろ姿(は)、如何(いか)にも憐れに、如何にも寂しく見ゆるかな。丈夫(じょうふ)(=成人男子)の胸裡(きょうり)(=胸の内に)、涙(は)満々(まんまん)たり。

仰ぎて望めば、落日まさに芙蓉の山影に没せんとし、山頭(は)雲(うん)濛々(もうもう)として雪まさに降る。惨(さん)たる(=心の痛む)光景、鉄(てっ)腸(ちょう)(=鉄のように固い意志)も寸断せんとす。ああ母上のもし生きて家に居給わば、この苦しき哀しき思いをすまじきものを。震(ふる)うばかり寒ければ、再び待合室に入りて、思いを凝(こ)らして黙祷しぬ。

やがて時は来(きた)りぬ。切符を購(あがな)うて汽車に乗(じょう)じぬ。日は既に没して、寒さ堪(た)ゆべからず。されど情の寒きには幾倍か勝(まさ)れり。寂寥(せきりょう)(=寂しく侘(わび)しい思い)の極(きわ)み、室(=客車)の一隅に眼を閉じて言(ことば)なく、心を静めて動かず。

既にして(=間もなく)汽車は新橋に着(ちゃく)しぬ。それより人力車に乗じて帰社す。時はまさに午後十一時なりき。           (明治25年3月22日 女学生第22号)

愛につきて

(一)愛と欲

紫(むらさき)の朱(しゅ)を奪うを悪(にく)む(=純色の朱よりも中間色の紫が人目を引いて好まれように、不純が純粋を駆逐(くちく)することを憤(いきどお)った孔子の言葉[論語・陽貨]から)。また、欲が愛を誣(し)うる(=ねじ曲げること)を悲しむ。ああ世人は何(なん)ぞ愛を軽視するや。愛に清潔・不清潔の別なし。清潔なるものは神より出づ、即(すなわ)ち愛なり。不清潔なるものは世より出づ、即ち欲なり。

ヨハネ曰(いわ)く、「凡(およ)そ世に在(あ)るもの、即ち肉体の欲、眼目(がんもく)の欲、また勢(いきおい)より起こる驕(きょう)愛(あい)(=傲(おご)り昂(たか)ぶった愛)、これらはみな父(=天父)より出(い)づるに非(あら)ず、世(=俗世)より出づるものなり」(ヨハネ一書2-16明治訳)。

また曰く、「愛は神より出(い)づ。おほよそ愛する者は神に由(より)て生れ、且(か)つ神を識(し)るなり。愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なればなり」(同4-7~8)と。

パウロは曰く、「肉に從(したが)ふ者は肉の事を念(おも)ひ、靈(れい)に從ふ者は靈の事を念ふ」(ロマ8-5)と。

既(すで)に光の有らば、暗からざるなり、既に暗からば、光は有らざるなり。愛ある者は何ぞ欲を行なわん。欲ある者は何ぞ愛に歩まん。天の人は天の心を持し、地の人は地の思いを有す。

(二)愛の苦

 パウロの書に曰く、「愛は己の利を求めず、人の益を図(はか)り、不義を喜ばずして、眞理を喜ぶ」(コリント前13-5~6明治訳の抄出)と。ソロモン(=ダビデの子。イスラエルの王)は『雅歌(がか)』(旧約聖書)に曰く、「ああ愛よ、諸々(もろもろ)の快楽(たのしみ)の中にありて汝は如何(いか)に美(うる)はしく、如何に悦(よろこ)ばしきものなるかな」(7-6)と。

 世に愛ほど美しく楽しきものあらんや。而(しか)して男女の愛を知る者、心に苦痛を感ずるは何ぞや。また夫が心に妻を思い、妻が夫を思うは何ぞや。吾人(ごじん)(=我々)これを考うるに、夫婦が相手を思うは、よく尽し、よく与え、よく益することを得んが為(ため)なり。また愛ゆえの苦痛を覚ゆるは、時間・地位・場所等の関係より、思う如(ごと)くに尽くすこと能(あた)わず、意の如くに与うること能わざるより生ず。

(三) 愛と人物修養

愛人の為に尽くすは何の故(ゆえ)か。究(きわ)め来(きた)れば、愛する者をして立派ならしめんとするにあり。彼または彼女を立派ならしめんとせば、まず己(おのれ)自(みずか)ら立派ならざるべからず。彼また彼女をして深く神を愛し、博(ひろ)く人を愛するの偉人たらしめんとせば、まず己(おのれ)自(みずか)ら神に深愛に、人に博愛なる者とならざるべからず。

而(しか)して己(おの)が微力は何事をもなすに堪(た)えぬを知り、ここに於(お)いて、彼の為・彼女の為・己の為に、赤心(せきしん)(=真心)よりの祈りの生ずるなり。心は押しやらるる如く基督(キリスト)に向かう。即(すなわ)ちその信と望と愛とは、益々(ますます)確(かた)く、益々篤(あつ)く、益々大となり、小より大へ、偏(へん)より博(はく)へ(=偏愛から博愛へ)、《我等の愛》より《基督の愛》へと到るなり。

パウロがピリピ人(びと)に送れる書に曰く、「我、キリスト・イエスの心もて爾曹(なんぢら)衆(すべ)てを恋慕することにつきて、その證(あかし)をなす者(=証人)は神なり」(ピリピ1-8明治訳)と。この境(きょう)(=境地)に到らば、その人の美はいかばかりぞや。吾人はかくの如き男女を見んことを欲す。

(四) 愛に失望なし

基督教徒の「夫婦」という思いは、互いに相手に尽くさんとする心より、また犠牲・献身の精神より起こる。而(しか)してその夫婦の願いを成就し得ざる時は如何(いか)に。これを不信者の恋愛に質(ただ)す(=調べる)に、その愛人(が)もし他の者と夫婦になるが如(ごと)き事態(に)至らば、世を儚(はかな)みて、盛りの花を一夜の嵐に散らす(=若き身空(みそら)で自殺してしまう)が如きの男女の無きに非(あら)ず(=ないこともない)。

「吾は実に汝を愛す。されども節義を愛すること、汝を愛するに過ぎずんば(=あなたへの愛よりも強くなかったならば)、吾はかくの如くよく汝を愛すること能(あた)わざりしならん」との言葉を以ってこれを推(お)す(=推測する)に、神を愛する基督教徒の愛は、世の青年男女の恋愛よりも、幾々層(いくいくそう)深きやを知るべからず(=何倍も深いことを知らざるを得ない)。さればその(失恋の)苦痛は、さらに幾々層深き筈(はず)なり。而(しか)もなお、失望(は)無しと言うは何の故(ゆえ)ぞ(=なぜであるか)。

蓋(けだ)し(=確かに)信者の愛は、基督の心を以(もっ)て愛することなり。基督は曰く、「我より父母を愛する者は我に協(かな)はざる(=不適合の)者なり。我よりも子女を愛(いつくし)む者は我に協はざる者なり」(マタイ10-37明治訳)と。我らが(=我々の)愛は基督より来(きた)る。基督を深く愛すればこそ、人をも深く愛することを得(う)るなれ。即(すなわ)ち基督に在(あ)る者は、如何(いか)に苦しくとも、失望無き筈(はず)なり。

基督は嘗(かつ)てゲッセマネに祈りて曰く、「父よ、もし聖旨(みむね)に肯(うべな)はば(=御心(みこころ)に適(かな)うならば)此(こ)の杯(さかずき)(=十字架)を我より離し給へ。然(さ)れども我意(わがこころ)のままにとには非ず、ただ聖旨の儘(まま)に爲(な)し給へ」(同26-39明治訳)と。神を信愛し、全てをこれに一任し給うこと(は)、我等信者の学ぶべき祈りならずや。

夫婦となるもならざるも、みな我等を愛する神の聖旨(せいし)なりとせば、我等はいずれとも(=いずれにせよ)これを感謝すべきなり。

(五) 円満の愛

「我、愈々(いよいよ)爾曹(なんぢら)を愛すれば、愈々爾曹に愛せられず、されど喜びて爾曹の霊魂(たましひ)の爲(ため)に財を費やし、身を盡(つく)すべし」(コリント後12-15明治訳)と言いしパウロの心(は)、如何(いか)に美(うる)わしく、如何に大なるかな。

「父よ、彼らを赦(ゆる)し給へ、その爲(な)す所を知らざればなり」(ルカ23-34)と、十字架上に己を殺す者の為(ため)に祈り給いし基督の心に至りては、我等(は)何の言(げん)を以(もっ)てこれを讃美すべきやを知らざるなり。ああ我等(は)深くこれを思わば、よく円満の愛を悟ることを得ん。                                      

(明治25年3月26日 女学雑誌310号)

)

コメント

タイトルとURLをコピーしました