事業と労働(一)

大正十三年十一月十九日

於大阪毎日新聞社

 私は大阪毎日新聞の読者の一人でありまして、今晩ここに参りまして、この新聞を経営なさっておいでになります社長(=本山彦(もとやまひこ)(いち)氏。後に東京日日新聞を合併して、今日の毎日新聞の(もとい)を作った)を初めとして、新聞をお作りになっている皆さんに直接お眼にかかって、私の考えを申し上げることができますことは、非常に喜ばしく感ずるところであります。

 今晩は『事業と労働』ということにつきまして、私の所感を申し述べみたいと思うのであります。私が青年時代から今日に至るまで、最も心血を(そそ)いで参りましたことは、宗教上の修業でありまして、今日なお修行中の身であります。

 私は現代の日本の状態を見まして、多くの事が西洋の《直訳的》であることを、非常に不満に感じている一人であります。私が研究し、修行し、信仰しておりますところの宗教におきましても、従来の直輸入的なものは好みません。またそういうものでは役に立たないことを実際に体験いたしました。そこでいろいろ(みずか)ら苦心し、発明(=新たに考え出す)した結果、宗教においては独自のものを持っているつもりであります。

 労働問題についてもまた同じであります。西洋の直訳は嫌いでありまして、私は私として一個の独立した考えを持っております。そして郡是(グンゼ)製糸株式会社の工場において、一万二千人ほどの人々に、この道を伝え、これを実行させて、工場の根本精神を作るように致したのであります。今夕(こんせき)はその考えをお話ししてみたいと思うのであります。

 一切の根底は、私が三十六年間にわたって経験してきた宗教の大生命であり、そしてまた十六年間工場の中にあって、働く人々と一緒に苦しい目に()ったり、(つら)い思いをしたりして経験し、研究してきたことでありますから、他の人の考えとは少々違うかもしれませんが、決して空論ではありません。それだけはご承知になっていただきたいのであります。

 第一 事業ならびに労働の本義 

 事業とは何であるか、何のために事業をするのか。労働とは何であるか、何のために労働するのか。そういうことをあまり考えずに働いている人が多い。しかもそういう根本の考えがしっかり立っておりませんと、その人の精神が、山のように座って動かないという状態(=不動の心)にはなりません。詰まらない議論を聞いてすぐ動揺してしまいます。

 私はこの事業問題・労働問題の根底を宗教の上に置いております。東西両洋の宗教を研究し、修業し、悟って信じている私の神は、《働く神》、すなわち《今も働いておられる神》であります。神には静かな方面と動く方面とがあります。静かな方面を悟ろうと思うなら、どの宗教でも瞑想とか静座とか座禅というものがあります。そういうもので心を落ち着け、(とき)(いた)って(かつ)(ぜん)として(=迷妄・疑問が一挙に解決するさま)大悟(たいご)する。すなわち神の静的方面に触れるのであります。

しかしそれだけでは尽くしておりません。もう一方には、動いて働いている神があります。そういう方面を本当によく悟って、それを人間にお教えくださったのがキリストであります。キリストのお言葉に、「わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり」(ヨハネ5-17)とあります。

 「労働は神聖なり」と言いますけれども、何ゆえ神聖であるか、この根本がわかって初めて労働の意義がわかるのです。

 神は常に活動してこの大宇宙を動かしておられる。何億万年という間の不断の活動によって、今日の世界が()ったのであり、また今も成りつつある。神の仕事には失敗ということがありません。この天地を不完全から完全へ、暗黒から光明へ、暗愚から賢明に、悪から善へと、徐々に完成させていく。(まこと)に神は偉大な経営者であり、また労働者なのであります。

 では人間の事業はいかなるものであるか。我々はこの神の精神を受けて働くのが本義であります。ゆえに私は事業に定義を下して、「自他の人格を向上させ、相互の幸福を増進し、世界の文化を(えき)し(=役に立つ)、現世に天国を来たす(=実現する)べきもの」としております。

 ただ人はみな違った特徴を持っており、境遇もまた(こと)なっております。私のように宗教や教育の道に働く人間もあれば、諸君のように新聞発行の事業に(たずさ)わるお(かた)もある。いろいろではあるけれども、その目的は一つ、すなわち神の天地経営の一端に参画(さんかく)することであります。

 そういうふうに考えて仕事をしますと、事業というものが実に尊く神聖なものとなり、私どもが生涯かけて従事すべき、非常に光栄あるものとなるのであります。これを詳しくお話すればよいのですが、それでは後のお話ができなくなりますので、初めの方は概略だけに留めまして、後の方の、皆さんによくわかるお話を進めて参りたいと思います。

 第二 労働の精神

 労働の本義がわかっておれば、「労働の精神」というものは自然に納得できることであります。しかし世間では、事業や労働というものを、今お話ししたような意味には考えておらず、もっと低い意識で働いている人が多いのであります。

「労働の精神」と言えば、世間一般の人は「利益」を第一に挙げます。しかしその考えが果たして健全であるのかどうか、検証してみる必要があります。利益を土台にすることは、人間の所有欲を(もと)とすることで、それがだんだん(こう)じてくると、皆さんのお作りになっている新聞にもよく()っておりますように、利欲のために親子で喧嘩したり、兄弟で争って殺し合いをしたりするなど、いろいろ(みにく)いことが起こって参ります。欧米でもようやくその弊害に気がついて、どうしたらよいかと識者が考えるようになりました。東洋においては、遥か昔に孟子(もうし)という賢人が出て来て、「上下(しょうか)交々(こもごも)に利を(あらそ)えば、国(あや)うし。(・・・・)義を後にして利を先にするを()さば、奪わずんば()かず(=飽くまで奪い合いになる)」(孟子・梁恵王上)と戒めています。

 私どもの会社(=郡是(グンゼ))では男女(ろう)(にゃく)・社会経験の豊富な人・高等教育を受けて来た人・普通教育を受けたのみの人など、さまざまの人が働いておりますが、それらの人に向かって私が説くのは利益問題などではありません。むしろ私欲の念を()て、我欲の心を去って働くべきことを主眼に説いています。

 孟子が言うように、もし人々が(もっぱ)ら私利私欲で働いていると、一家の中でも利を争って、家庭が危うくなり、()いては会社が危うくなります。そうなると経営者も労働者も危うくなり、産業が破壊され、国家も破綻(はたん)してしまうことにもなりかねかせん。そういう経済上の破滅ばかりでなく、各々の人格まで破壊されます。こうなってしまっては、一体どこに幸福がありましょうか。