事業と労働(三)

大正十三年十一月十九日

於大阪毎日新聞社

 私が東京から丹波(たんば)(=郡是(グンゼ)本社があった)に参りまして、ちょうど十六年になりますが、今では労働時間が短縮されて、一日十一時間くらいですが、あの当時、関東の有力な製糸工場では、十五・六時間くらい働いていた。そんな際に郡是では十三時間にし、ただ今では十一時間に短縮しました。

けれどもこの間、だいぶ煩悶(はんもん)しました。もし突飛(とっぴ)(=奇抜)なことをして工場自体が立ち行かなくなっては、他の我利(がり)我利(がり)主義の工場に圧倒され、ついには併合されて、存在を失ってしまいかねない。そんなことになっては何もできなくなってしまうと考え、道を行ない、人を善くしつつ、しかも事業上に一厘(いちりん)(=当時の最小貨幣単位)の損失も出さずに、なおかつ正しく賢く改良していこうと、随分苦労しました。

とにかくそれだけ長時間働いて、疲れ切っている人たちを、如何(いか)にして修養させるか、それが私の最初の難問でありました。講話なども四十分以上に(わた)らぬよう気を付けました。何とかして皆が正しくかつ賢い人となって、善き働きをして真の幸福を得るように尽してやりたいと思い、今お話ししたとおり、「仕事をする時は神の前に純一の誠を(もっ)て、自分の《天職》を行なう」という心を持たせるよう教え、一方、私自身は、その教えるとおりを実践躬行(きゅうこう)(=口に説くままを自ら実行する)して進みました。

純一になると心が無駄に使われない。心が二つにも三つにも分かれませんから、自分でも楽になっていく。これはいろいろの方面から研究してみたのでありますが、労働の方で非常に必要なのは、精神上の修養と同じく、《純一無雑》ということであります。そうなるために、仏教の禅の方では《公案(=雑念を払うために与える難解な設問)》というものを考えさせます。例えば「無とは何か」とか、「本来の面目(めんもく)」とか、「隻手(せきしゅ)(=片手の)音声(おんじょう)」とか、いろいろあります。この隻手の公案は有名な白隠(はくいん)禅師(ぜんじ)(=江戸後期の臨済宗の名僧)が考案したもので、「(りょう)()(あい)()って声(=音)あり、(かえ)って隻手の声を聞くや(=拍手した際、片手の発する音が聞き分けられるか)」、そう言って片手を突き出されるのです。(しゃく)(そう)(えん)(=後の鎌倉円覚寺・建長寺管長)の師匠であった(こう)(せん)和尚(おしょう)(=幕末・明治を代表する臨済僧)は、大拙(だいせつ)和尚(=相国寺(しょうこくじ)(だい)(せつ)(じょう)(えん)。鈴木大拙とは別人)からこの公案を課されて、「隻手に何の音声(おんじょう)かある」と、純一に二年間考えて悟道に入りました。

しかしこういう修行は、たっぷり時間がないとできません。今の忙しい世の中で、片手の音を二年間も考え続けることなどできません。そこで私は、勤労そのものを公案と見ることを教えました。上下(しょうか)を通じて(=社長から工員まで)これを教えました。(勤労に)純一になって来れば、心が透明になり、清浄になり、有力になります。これがすなわち神に通じる信仰、道と(いつ)になる修養であります。この透明・清浄・有力の心を(もっ)て仕事をすれば、その製品はますます優良になっていき、一個人としても一社としても、ますます利益を挙げ、人格と事業と、二つながら向上していくのであります。ゆえに神の前に純一の誠を以て、完全に天職を行なえるようになって初めて、「健全なる労働の精神を得た者」と言うことが出来るのです。

(第三)労働の種類

次に、「労働の種類」ということについてお話し申し上げます。

カーライル(=19世紀英国の思想家)の言葉に、「労働の広きことは大地の如く、その(いただき)は天にまで達している。(ひたい)の汗・背の汗、(さら)(のぼ)って脳の汗、すなわちケプレル(=17世紀ドイツの天文学者。惑星の運動に関する法則を発見)の計算も、ニュートン(=17世紀英国の物理学者。万有引力の発見・他)の熟考も、全ての学術・全ての工芸、言語に()った凡百(ぼんぴゃく)の(=諸々(もろもろ)の)歴史や、詩歌(しいか)や、実行なった一切の義勇・殉難・さらに(のぼ)って、万人が等しく神と(たた)える()の(=あの)『血の汗の苦痛』(=ルカ22-44)に至るまで、みなその中に含まっている」とあります。実に労働の種類は、縦(=(せん)(しん))においても横(=種類)においても数が非常に多いのであります。

けれどもこれを()かって、精神労働と筋骨労働の二種にすることが出来ます。分ければ二つになりますけれども、人間は霊肉で生きている者でありますから、そう厳格に分けることは出来ない。一個人で、精神労働をしたり筋肉労働をしたりする人もいる。これを職業的に分けて、二つと言うに過ぎません。

ところが従来、精神労働ばかりを重んじて来た反動として、今日、労働と言えば筋肉労働のみを指し、精神労働を軽視する傾向にあります。これはどちらも間違っており、両方とも尊いのであります。そもそも一つの仕事をするに、両方が調和していないと、本当の仕事は出来ないものであります。

こういう問題につきまして、私どもは昔の聖賢の考えと何ら変わりはないのでありますが、ただ今の西洋由来(ゆらい)の悪差別・悪平等思想の人、権利一点張りの人、物質主義の人、《直訳宗教》の人とは一線を(かく)して(=はっきり区別して)おります。私の立場を申しますと、およそ私は人に()びるということが嫌いで、資本家に媚びる事も労働者に媚びることも致しません。

私の同郷人にはずいぶん金持もおり、権勢を誇る人もおりますが、私は一遍(いっぺん)も訪ねたことはない。そういう人を訪ねて行くのは、金を貸してくれとか、助力を頼むとかいうような人で、そんな(たぐい)と一緒にされるのは(いや)であり、またそんな(いや)しい人間の応接に時間を取られる金持が気の毒なので、行かないのです。

本当に世を善くし、真に人の友人となって相手を善くしようと思うなら、人に求める(=要求する)所があってはだめなのです。ですから労働者にも媚びることはしません。(いず)れに対しても、善を善と言い、悪を悪と言い、()(=正しいこと)を是とし、()(=正しくないこと)を非とすることを(はばか)らない(=遠慮しない)。

かつて、ある有名な社会主義の人(ここで名前は申しませんが)が私に会いに来て、「どうしても資本家は善くないから、自分は終生労働者の味方をしてやるつもりだ。あなたもどうか我々の仲間に入ってもらいたい」と言う。私は即座に答えて「私は信仰の道を(もっ)て立っており、労働者を救うばかりでなく、資本家をも済度(さいど)する考えであるから、あなた方よりも広い立場で活動したい」と言うと、その人はそれっきりその話を()めました。

この人は、その後さらに研究と実行を積んだ結果、どうしても(ゆい)(ぶつ)()(かん)の社会主義では、人も社会も幸福にすることは出来ぬと悟り、今では熱心な仏教徒になっております。

人間を物質的に見ることくらい失敬(しっけい)(=無礼)なことはないと、私は考えております。人を自覚させると言うなら、本当に人間的に自覚させてもらいたい。資本家も労働者も、ただ(かね)・金と言うばかりでなく、人間的に自覚してもらいたいと思う。

ではどうしたらそういう自覚を得られるかと言うと、今お話ししたとおり、事業を行なう人は、単に利益や金儲けばかり考えず、己の事業によって国家を益し、世界を益し、社会全体を今よりももっと高めるように心掛けるべきであります。

私ども一人一人がその神聖なる事業に参画(さんかく)していくのであります。我々みなが神のご経綸(けいりん)(=天地経営)に参与する。そうなれば、今日一人が欠けてもその仕事は障碍(しょうがい)を来たすのであります。そういう自覚を持った時、精神労働者も筋肉労働者も、等しく尊い者となる。そういう自覚を持った上で、自ら重んずると共に他を重んじ、自らを愛すると共に他を愛し、一致協力して事業の向上発展を期すのであります。