「愛」の一面に固く拘して僻する時は、
(一)は狎れ泥んで罪を犯すことを恐れず、熱心な信仰を有しつつ平然と不道徳を行ない、「このような罪人であればこそ、如来の慈悲に摂取せられる」などとうそぶき、世人に「後生願の者(=阿弥陀如来に帰依して極楽往生を願う者)ほど碌な者はない」と愛想をつかされる者が少なくない。実に慨歎すべきことである。
(二)は古人が「仁に過ぐれば弱」(伊達政宗)と言ったように、情に負けて弱くなる。その結果、言うべきことを断言せず、行なうべきことを断行せず、ただ他人の気持を損じることを恐れ、その結果、いわゆる《徳の賊》たる「郷原の徒」(論語・陽貨)となり了る者が少なくない。実に憐れむべきことである。一方に「勝利の福音」(=海老名弾正の著書名)を宣伝する者があるのは、すなわちこの病に対する良薬と言うことができる。
諸君はこの七方から神を観じ、七面から己を省察されたい。
「真」を得ると共に美を味わえば、野卑に流れず、「大」を識ると共に善を体現すれば、醜悪に墜せず、「智」を研くと共に善と美と愛と能とを養えば、冷静・不信・怯懦(=憶病・意志薄弱)に流れない。「善」を知ると共に大を得れば、頑固・臆病に陥らず、「美」を味わうと共に善を踏めば、放縦に流れず、「能」を得ると共に真と善と美と愛とを有すれば、俗悪・妄争に傾かない。「愛」を有すると共に善と能とを持てば、罪悪と柔弱とに沈まないのである。
思えば私は下根劣機(=劣等・無能)、愚直熱狂、しばしば一方に傾いて安んじなかった。それを活動・力行・瞑想・祈祷して、時には苦境に練られ、時には黙示を蒙り、かくして十有九年を経過して、ようやく一偏の弊(=一方に偏る弊害)を脱れ、七面より神を観じ、神によって一切の矛盾を調和し、以来十二年、ようやく天下先進(=世の先輩たち)の舌頭筆先(=論述や文筆)に惑わされなくなった。
「真」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、ソクラテース、パウロ、ワシントン、クロムウェル、孟子、諸葛亮(孔明)、関羽、王陽明、道元、白隠、吉田松陰、西郷隆盛、押川方義師、および小児の霊化を蒙り、
「大」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、慧能、大慧、王陽明、豊太閤(秀吉)、西郷隆盛、押川師の恩化を蒙り、
「智」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、ソクラテース、道元、白隠、諸葛亮、ナポレオン、織田信長、勝海舟、押川師、新井奥邃師の教化を蒙り、
「善」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、孔子、孟子、ソクラテース、エパミノンダス(=スパルタと戦った古代ギリシアの将軍・政治家。)、クロムウェル、劉備、関羽、趙雲、平重盛(=清盛の子。武勇に優れ、忠孝の心が篤かった。「孝ならんと欲すれば忠ならず・・・」の葛藤で有名)、楠木正成、中江藤樹、二宮尊徳、押川師、巌本如雲(善治)氏、および父母の恩化を蒙り、
「美」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、および東西の詩人、文士、婦女、小児、天地万物の感化を蒙り、
「能」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、パウロ、ルーテル、ナポレオン、日蓮、ブース、押川師の風化(=徳による教化)を蒙り、
「愛」を学ぶ上においては、キリスト、釈迦、アッシジの聖フランシスコ、劉備、法然、親鸞、蓮如、押川師、新井師、および父母・朋友・婦女・小児の徳化を蒙った。
これからは時間を作って、さらに精細に修習し、かつ未見の諸聖諸賢に学び、もって己の内実を充実させ、広く天下の同朋に尽さんことを願っている。
回顧すれば我が実践の道は歴々(=はっきり明白なさま)として、寸毫(=ほんの少し)も疑うべき所はなかったけれども、前方を望めば理想の峰は高く雲外にある。そこで即ちペテロと共に、「唯この一事を務む、即ち後のものを忘れ、前のものに向ひて勵み、神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美を得んとて之を追求む」(ピリピ3-13)と心に誓い、絶えず神に導かれ、喜び勇んで向上し、苦しみ励んで活動することを、ここに改めて期するものである。(了)
コメント