神人合一の境地
昭和十年六月九日 於東京教会
どんな宗教にも極意がある。仏教なら《真如(=絶対的真理の悟得)の境地》、儒教なら《天人合一》、基督教なら《神人合一》である。ヨハネ伝の『主の祈り』(17-1~26)は、自分が育てた弟子たちが、遂には神と一体となれるようにと天に懇願された祈りである。
パウロなどはその境地に入り、絶対信頼からさらに進んで、神・基督と一体になり、「最早われ生けるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2-20)と言った。
「丈夫は自ずから冲天の気あり。如来の行処に向い行く莫し(=立派な男子には天を突く気概が自然に備わっており、いたずらに開悟者の足跡など踏まぬ)」(十玄談)。
「尋思す、去りし日、顔は玉の如し。嗟歎す、来たる時、鬢は霜に似たり(=思い返せば、昔は玉のような若々しい顔であったが、悲しいかな、今や頭髪は霜のように白い)」(同)。
「木人は夜半に靴を穿ちて去り、石女は天明に帽を戴いて(=被って)帰る(=いかなる朴念仁でも散歩に出たくなるような誘惑の夜半もあれば、いかに無風流な女でも、朝帰りしたくなるような心惑う一夜もある)」(同)
これは仏法の極意(=開悟の機微)を悟った同安常察(=初期中国仏教の基礎を確立した学僧)の句である。
唐の太宗の次が高宗で、その次が女帝・則天武后である。この人が国を継いだが、うまく治まらぬので宗教心を起こし、天下第一等の高僧について学びたいと思い、天下に触れを出して名僧・高僧を宮中に招いた。
大勢集まったところで、実際に人物検査をしてみようと考え、豪華な風呂を仕立て、半裸の美女たちを湯女につけて、一人ずつ入浴させた。日頃行ない澄ました僧たちも、これには戸惑って、邪念など起こらぬよう警戒しつつ湯に入った。
そんな中で同安師だけは平常心そのまま、実に天真爛漫、悠々と湯を楽しんでいた。物陰からこれを見ていた則天武后は、甚く感心して、「水に入って長人(=背の高い人/徳の優れた人)を見る(=見わけがつく)。我は同安師において真の徳を見たり」と言い、それから謙遜して道を学んだという。
「丈夫は自ずから冲点の気あり。如来の行処に向い行く莫し」
『みあしのあと』という書物を仙台時代に見たことがある。「キリストの足跡をそのまま踏んで進む」という意味で、米国などでよく売れていたという。「如来の行処に向かい行く莫し」はこの逆である。古人の足跡を踏むと言っても、それが形式的・機械的であると、昔と今とは違うし、日本とユダヤ、あるいは米国とでは違うから、そのとおりにはいかない。そういう外面ではなく、その《心》を踏襲することなら、何時でも、何処でも、誰でもできる。心さえ一つになれば、後は臨機応変にやっていける。
押川先生は非常な大器のため、凡人からは誤解された。しかし兄弟のように交際していた本多庸一さんは、先生の精神がよくわかって、最後まで親しく交流なさった。先生の伝道には力があって、聴く者を感動させた。東二番町角の東本願寺別院が売りに出され、先生がそれを買い取ろうとなさった時、一老婆が出て来て、何十年間か風呂焚きをして貯めた金・五円(=約10万円)を献じた。するとそれに感動した人々から次々と寄付が集まり、買収は成功した。そこを会場に日曜集会をお始めになると、他の教会からも人々が聴きに来るので、信者を獲られた形になってしまった牧師たちが、悪口を言うようになった。
当時の宮城県知事・松平康信という人が、その噂を聞いて、「自分も話を聞きたいから、自宅へ来てくれ」と言って来た。先生は応じられなかった。三度頼んでも来られないので、その人は怒ってしまって、「貴公の信ずる基督とやらは、四方を飛び回って教えを説いたというに、基督ほど偉くもない貴公がどうして伝道に来ないのか」と言った。先生は「基督は基督、私は私」と言われた。まさに「如来の行処に向かい行く莫し」である。
小此木信六郎という人(=医学博士)が信者になったのも、そうであった。氏は当時福島にいて、多くの牧師が「あれを信者にして、自分の名を揚げよう」と押し掛けたが、一向に靡かない。そんな時に、たまたま押川先生が福島に来られたので、「名は聞いているが、実際はどんな人間なのか、一度会ってみるか」と、軽い気持で出掛けて行った。行くと、「ただ今、食事中である。少々待たれよ」と言われた。「俺が何様か知らんのか」と思いながら待って、ようやく話を聞く事ができ、たちまち感動して、その場で信者になったということである。
また先生の教え子に吉田という人がいて、非常に熱心に布教して回って、何人も信者を作るのであるが、先生は「吉田が掬ってくるのは雑魚ばかりだ」と苦笑しておられた。
こちらの人格が小さいと、小さい人間しか集まって来ない。道を説く前にまず、人格を造らねばならないのである。
「尋思す、去りし日、顔は玉の如し。嗟歎す、来たる時、鬢は霜に似たり」(前出)
釈迦や孔子のような人物になりたいと思い、大志を懐いて故郷を出た時は、まだ齢若く、顔も玉のように輝いていたが、如何せん、今や髪も霜のごとき老人になってしまった。これは私自身、身につまされる(=人ごとではないと感じられる)ものがある。「キリストの心を心としたい」(ピリピ2-5)と願って四十七年間修行して来たが、未だ容易なものではない。しかし、そうかと言って、自分免許して《卒業信者》になるわけにはいかぬ。それでは宗教を粗末にすることになる。
「木人は夜半に靴を穿ちて去り、石女は天明に帽を戴いて帰る」(前出)
木人や石女のように、どんなことがあっても動じない人格を養わねばならない。
かの大灯国師は、
「雲よりも上なる空に出でぬれば、雨の降る夜も月を見るかな」
と詠じた。私はこれを富士山で実地に経験した。
宗教の深い所に行くと、常識以上になる。聖書を見るにも、俗世の雨の下で見るのと、雲上で見るのとまるで違う。下界にいて、雲間に洩れる光を垣間見て、「啓示(=神の示し)を受けた」と大騒ぎする。一枚上に出れば、いつでも真理の太陽は輝いているのである。抜けるか抜けぬかは紙一重であるが、抜けさえすれば、下の人の想像できぬことがわかる。
「心の清き者は福なり、其人は神を見ることを得べければ也」(マタイ5-8明治訳)
信仰のない人は、泥田の中に住みながら、それに気づかない。たまたま良い先輩に会って、心身を洗われて綺麗になって喜んでいると、いつの間にかまた元の泥田に帰ってしまう。
泥田に居る限り清められない。せめて小川なりとも、水の流れている所に出なければならない。しかし小川で水浴びして綺麗になったと喜んでいてはいけない。その先にはもっと大きな本流がある。そこを舟にでも乗って下れるなら、どんなに楽しかろう。神に任せ切った信仰(信頼)とは、それである。
川の上流・中流・下流はみな景色が違う。上流の方が、早瀬や奇岩などあって人目に立ちやすい。中流以下は坦々とした眺めになる。河口に差し掛かると、川幅が広がって両岸も見えず、河なのか海なのか判じがたいくらいであるが、水を一口飲んで見ればすぐわかる。一たび大海の中に出てしまえば、多少の濁り水が流れ込んでも、泰然(=悠々)として浄化できる。
そこを間違えて、まだ身は上流にありながら、「清濁併せ呑む」などと粋がっていると、たちまち自分が濁ってしまって、二度と立ち戻れなくなる。ゆえに修業の旅路は、あくまで一歩一歩謙遜に歩まなくてはならない。パウロの言ったとおり、「後のものを忘れ、前のものに向ひて勵み、標準を指して進む」(ピリピ3-13~14)のである。
私は今年六十九歳であるが、十六歳の若者にも負けぬ向上心を持っている。これまでは、大海の水を貝殻で掬う程度の事しかできていないが、通って来た跡は、世界中の学者が挙って批判しようが、びくともせぬ覚悟である。
「己をすて、己が十字架を負ひて、我に從へ」(マタイ16-24)
《合一》とは、己を捨てて無になることである。しかしなかなか己は取れないものである。信仰上の経験を積んだら積んだで、積んだこと自体が《己》となって、進歩を妨げる。
真に己がなくなった時、初めて大きくなれる。己がなくなった所に神が入って来られるからである。
具体的言えば、己を無にして、そこに《完全の信仰》を注入する。すなわち、悔改・信頼・希望・愛慕・学習・合一である。ところが欧米の基督教は、悔改と信頼をもって信仰の全てとしているから、今日のような無力な宗教になってしまった。そして個人的信仰の範囲ならまだしも、英国などは国策として日本と支那(=中国)を戦わせようとしている。基督教国を自任しながら、そういうことをする以上、日本にはそれを指導する使命があると思う。
およそ個人・家庭・国家・世界全体が、信仰においても、政治においても、外交・経済においても、基督の心を心とするようにならねばならぬ。その第一歩として、しっかりした後継を作り、何千年経ってもこの道が行なわれるようにしたいと思う。それには我意を立てず、言う事・行なう事を基督の心を以てし、言葉の伝道・行為の伝道でなく、人格による伝道ができるような人材を育てたいと願っているのである。
その上に向上・奉仕があるのであるが、それについては明晩お話しする。
神人合一の境地(続き)
昭和十年六月十日夕 於学生修道院
○向上・信頼
信頼の人は、信頼という事を非常に難しく考えるが、信頼し切ってしまえば、信頼について悩むことはない。子が親を信頼するのに、何の苦労もないはずである。
○不断の向上
「人生の目的は神の如くなる事なり。神に追従する霊魂(=精神)は遂に神の如くなるに至らん」(ソクラテース)
「汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」(マタイ5-48)
「吾(は)、十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順う(=人の言葉がそのまま受け取れる)。七十にして心の欲する所に從えども矩を踰えず(=道に外れない)」(論語・為政)
「唯この一事を務む、即ち後のものを忘れ、前のものに向ひて勵み、標準を指して進む」(ピリピ3-13~14)
「我等はみな面帕(=ヴェール)なくして鏡に映るごとく(明瞭に)、主の榮光を見、(我が身も)榮光より榮光にすすみ、主たる御靈によりて主と同じ像に化するなり」(コリント後3-18)
昨日の続きとして、「不断の向上」について話してみたい。
仏法の極意は禅が一番深い。禅では、道を修める人を仏陀・菩薩・縁覚・声聞の
四段階に分けている。このうち縁覚と声聞は自分だけ悟ればよいとする《自利》の修業。菩薩は「上は道を求めて進み、下は一切衆生を済度せん」とするもので、《自利・他利》の修業。その上に位するのが仏陀で、覚行円満(=修業と悟道が円満に成し遂げられること)の最高位にして、この上に進むべき境界はなく、むしろ降り来たって衆生の済度に当るのみである。
ゆえに禅で悟ると「人天(=人間界と天上界)の導師」などと自任して、集会の座などでは、(当然の如く)自分から一番上座に就く。釈迦も大迦葉(=釈迦の後継者)も達磨も仏陀であり、全部で五十人以上いる。私どもから見て、あまり感心しないような人でも、自分では仏陀だと言っている。
この区分から言うと、基督教徒はみな上に《天の父》を仰いでいるから、未だ最高位に達しておらず、せいぜい菩薩並みの覚者ということになる。従って鎌倉円覚寺の釈宗演(=「仏陀」を自称した)でも、基督以上の偉い存在となる。天なる神を持たない宗教はそうなる。
座禅して悟って絶対境に入り、自身が天地一杯の存在となって、もはや相対するものなし、それが仏法の極意である。相対する者がないから、下に降って民衆を済度するしかない。すなわち《合一》を最高位に置いたのである。
然るに私の宗教は《完全》を最高位(=至高の神)に置いているから、何度悟っても、まだ無限の《向上》が待っている。
「我は全能の神なり、汝(は)、我が前に歩みて(=進み出て)完全かれよ」(創世記17-1)
エホバがアブラハム(=イスラエルおよびアラブの始祖)に告げられたこの言葉を、基督は『山上の垂訓』で私どもにお教えくださったのである(マタイ5-48)。
「異教徒(=非キリスト教徒)の中で、最も道と真理とに近づいた者は釈迦牟尼である」と言われている。しかし神の完全から言うと、足りないところがある。少なくとも知識の上から言っても、現代の我々よりは不完全である。
完全を目標にして進めば、永久に進むことができる。私など、三十年修行して、なおパウロに及ばないところがあり、釈迦や孔子に及ばないところがある。我々が悟ったと言っても、宇宙の完全から見れば無にも等しい。「葦の随(=狭い視野)から天を覗く」と言うが、それくらいにしかわかっていない。そこで絶対謙遜の心が起こり、どこまでも進みたという念が湧くのである。ソクラテースがあれだけ真理に迫ったのも、この精神があったればこそである。
「人生の目的は神の如くなる事なり。神に追従する霊魂は遂に神の如くなるに至らん」(前出)。《追従》とは後を付き従っていくことである。子が親を追いかけていく、親を慕うその心に邪心はない。どこまでも神を追い慕っていけば、いつか神の如くなれる。そういう心を持っている方が幸福である。
神を追い慕っていけば、やがて心に何も無くなって、綺麗な精神が天地一杯になる。神が我々の《私我》を取り去ってくださるのである。そのおかげで我々は神と融合して一つになり、神を親として尊び、信じ、崇め、学んで、不断に進歩していくのである。
この点において、私は(浄土)真宗の説く《安心》に与しない(=賛同しない)。安心を得て、そこで進歩が止まってしまうからである。
私は《完全の道》を工場に応用して、二万人の人が(停滞することなく)絶えず進むようにした。それには上に立つ者の教育が大事である。山に登る時、先に立つ者が足踏みしていたら、後の者は進めない。
これを米沢で話したら、陽明学(=明の王陽明が唱えた実践的儒学)を学んでいた歌川という人が一番に感心して、「聖人たらんと志して多年、論語や孟子を研究して来たが、今回《神の完全》という事を教わった。聖人になれるかどうかはわからないが、少しでも近づきたいと思う」と言われた。
人間には先入主(=先入観)というものがあって、先に教わった事が、どうしても残って離れない。音楽の教師などが言うには、「初めに悪い癖が付くと、それを直すのに一苦労する」そうである。そうであればなおさら、初めから善い教えを受けることが何より幸せである。その点、最高・最大の理想を示されたのは基督である。
孔子は基督以前の人であったので、尭、舜、文王、武王、周公(=いずれも古代中国の聖天子・名君主)を理想として修めた。(次号に続く)
実修実行の七要項
大正15年4月15日 於・工務主任会
(一)完全を理想とする
(神)(人)
絶大…大
至健…健
真誠…誠
神{至善…善}人
全智…智
全能…力
純美…美
聖愛…愛
たびたび話す事であるけれど、何回聞いても、ただ理解しただけで終わって、それが実際の理想にならなければ何の意味もない。今日はこれが諸君の目標となるよう話す積りである。
社訓の初めに掲げてある《神》(=天道)は、(前掲の表示の)上段の如き性質を持っており、それを受けて人は、下段の如き性質を与えられている。《完全の神観》とは、このように神を各方面から偏らずに見る事である。
ただし、これを雛壇の内裏雛の如く飾っておいても仕様がない。これを自身の心に修めて、活かして用いて行く事が肝要である。それは至る事のできない遠い理想などでは決してない。
孔子の弟子の子貢は、師の人格を評して、
「夫子の及ぶべからざるや、なお天の階して升るべからざるが如し(=私が先生に及びもつかないのは、幾ら梯子を掛けても天には昇れないのと同じである)。夫子にして邦家を得ば、所謂これを立つれば斯に立ち、これを道びけば斯に行い、これを綏んずれば斯に来たり、これを動かせば斯に和らぐ(=もし先生が一国を治められたら、いわゆる『立たせれば立ち、手を引けば歩き、あやせば懐き、励ませば喜ぶ』というふうに自由自在になる)。その生や栄え、その死や哀しむ。これを如何にぞそれ及ぶべけんや(=だから生きておられれば国は栄え、亡くなられれば民は嘆く。そんなお方にどうして私が及び得ようか)」(論語・子張)
と言った。けれどもいかに聖人の境界といえども、決して到る能わざるというものではない。顔回などは既にそこに入っていた(=「われ回と言うこと終日、違わざること愚の如し[顔回は私と一日中話していても少しも異論をさし挟まず、まるで愚者のようだ]」同・為政)。社訓は決して「階して昇るべからざる」ものではなく、日々積み重ねて行けば誰でも到れるのである。
なぜなら諸君の心にも、この大・健・誠・善・智・力・美・愛というものは備わっているからである。誰でも小よりは大を、病よりは健を、悪よりは善を望む事からも、それはわかる。そういう望みはどこから来るかと言えば、父なる神の大への憧れから来るのである。人が健康を望むのは、神には病というものがない。ゆえに人もそうなりたいと思うからである。誠も智も力も美もみな神から来て、諸君の魂がそれを求めている。また神の方でも、常に人間を上へ引き上げたいと望んでおられる。
そして神と我々の間には、誰でも登る事のできる無形の梯子が掛かっている。それが日々の祈祷・瞑想である。従来の宗教は、ただ「悔い改め」しか説いて来なかったが、神からは教育の御手が降り、人には修養の積み重ねがある。これを一段一段、倦まず弛まず昇って行けばよいのであって、決して子貢の言ったような、絶望的な懸隔(=かけ隔て)が横たわっているわけではない。
基督は言われた、
「我まことに實に爾曹に告ん、天ひらけて神の使等(が)人の子(=イエス)の上に陟降するを見ん」(ヨハネ1-51明治訳)と。
聖書の記者は詩的に記しているが、事実、無形においてこのとおりのものである。我々は日々、地上の低い事に捉われているので、こういう壮大な状景を理解する事が難しくなっているが、事実は事実なのである。
近来、宗教上の事について尋ねる人が多く、先般も大阪の中等学校の校長が来て、「宗教の事をわかり易く話してくれ」と言うので、大体今のような事を話しておいた。
(一)志気を大にす
人は大抵、小志を懐いて小人(=小人物)で終わってしまう。私と同学で、学生時代には「将来は国家のために尽力したい」などと言っていた男も、五年も経って会って見ると大変に変わっていた。学校では古聖賢のことなど熱心に学んでいたが、社会に出て家庭など持つと、金銭などの俗事で頭が一杯になってしまって、月給が一円でも高ければ、そちらに靡いてしまう。結局、利益や名誉に埋没して小さくなってしまうのである。
どんな山も、最初の一歩を踏み出さなければ登れない。我々は根底を信仰の上に置いて、志気(=大事を成さんとする意気込み)を大にして、一歩一歩進んで行くのである。山鹿素行(=江戸前期の儒学・兵法学者)が嘆息して教えた言葉がある。
「志気とは大丈夫(=大人物)の志す所の気象(=心情)を言えり。大丈夫たらん者(が)、小さき所に志を置く時、その為す所、学ぶ所、みな至って微にして、大なる器に非ざるなり。道に志す時、管仲、晏子(=共に中国春秋時代、斉の賢相)が輩(=管仲・晏子などという者たち)の功烈(=大なる功績も)、なお為すに足らず(=行なうまでもない)と思うは、曾子(=孔子高弟)(や)、孟子の志気なり。もし小成に安んじ、気節の全きを得ざる時は(=気概と節操を完全に働かせる事ができないのは)、器(が)常に瑣細にして器識(=度量と見識)の大用を知らざるなり」と。
管仲は斉の桓公を輔けて覇業(=天下統一)を成さしめ、東洋の政治上に一大変革を起こした。世界的にも知られ、その著『管子』(=今日では、菅仲より後代の作とされている)は西洋人なども研究している。諸葛孔明(=中国戦国時代、劉備玄徳の覇権を支えた賢臣)も自らを管仲、楽毅(=同じく中国戦国時代の武将)に比した(=勝るとも劣らぬと考える)というくらいである。晏子(晏平仲)は同じく斉の霊公、荘公、景公を輔佐した賢人宰相である。
この二人(=管仲、晏子)の働きは、我が国における源頼朝や徳川家康以上である。時の禍乱を救った(=乱世を鎮めた)事においては慥にそうである。しかし孔子の道を伝えた曾子は管仲を褒めなかった。孟子もまた道が行なわれないため、世を退いて書を著わした。これらを管仲、晏子の働きに比すれば、孰れが後代に益するところ大であったかは言うまでもない(=管仲・晏子の方が頼朝・家康よりもずっと大きく後世に貢献した)。
今日の我々ならば、かの維新の三傑(=西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)にも勝るくらいの大きな理想を実現しなければならない。これを大言壮語と言う人がいるかも知れないが、小成に安んじていては、そこで止まってしまう。志気は大に、理想は高く、神と強い連携を付けるようにしなければ、大器大用はならない。
「そんな事が事業の実務と何の関係があるのか」と思う者がいる。疑う事は修養上に非常な妨げとなる。ヤコブは、
「疑ふ者は風に吹かるる籾殻の如し。斯の如き者は、神より何物も受くること能はず」(ヤコブ1-6~7)
と警告している。これを他人事と思ってはならない。試みに、自ら努めてみよ。従来できなかった事ができるようになる。それで神の絶対無限の智と力がわかって来る。この消息(=深い真理)が少しでもわかった者のいる会社は、自ずと成績が良いのである。
事業は精神である。某戦術家によれば、先般(=第一次大戦)のドイツの敗因は、ロシアの思想戦略に嵌まって、厭戦気分が広がってしまった事にあるという(=キール軍港の水兵反乱など)。ヒンデンブルクやルーデンドルフのような名将を以てしても、これを如何とも仕様がなかった。
(二)自らを責める
これも全て実験済みの事であるから、その積りでお聞き願いたい。私は三十八年間にわたって教育に携わって来た。その間、十数万の人を教えてみてわかった事は、人は虚心でないと間違った方向へ進むものである。せっかく善い教えを聞きながら、日常においては自分の《我》を立てるからいけない。自分勝手な標準を設けて、それに達しない人を責める。かつてのパリサイ人がそうであった。彼らは次第に冷酷になって、とうとう基督まで十字架に懸けてしまった。これほどの大罪はない。
真の修養を積む者は、人を咎めずして自分を責める(=自らを反省する)。あたかも明鏡に向かって厳粛に威儀を正すが如くである。自省を怠って、他人の欠点のみ非難するのは、まさに「禍害なるかな」(マタイ23-13他)である。
従来、世人は皇室の永く栄えます事を軽く考え、ただ「万世一系の血筋だから」くらいに思っているが、そこにはもっと深い意義が存している。明治天皇は、「天佑(=天の加護)を保有し、万世一系の帝祚(=帝位)を践める(=継承して来た)・・・・」と仰せられている。この《天祐》という信仰をお持ちになる事を知らなければ、皇室のご繁栄の所以(=理由)を語る事はできない。歴代の天皇は深い信仰心を持って、天に対し、神に対して、自ら徳を積み、身を修めて来られたのである。
花園天皇(=鎌倉後期、第95代天皇)のお言葉に、
「朕(=私は)常に己を責めて臣(=臣下)を責めず、故に天理(=天道を)よく知りぬ」
とある。西郷南洲も「己を尽して人を咎めず」(遺訓)と言った。己を責める精神があればこそ、天道がわかる。たとえば工務の実際に通じた諸君が、自ら改良を成し遂げたら、それを人にも示して改良させる事ができる。
宗教改革を断行したマルチン・ルーテルは、自らを責めて(=良心が咎めて)非常に苦しんだ。修道院の中で気絶した事さえある。そんな強い自責の精神あってこそ、あの宗教改革は成されたのである。
(三)人の善は学び、人の非は救う
これも言うは易く、行なうは難い。人には嫉妬心があって、他の善を素直に喜ばない。それでは協力一致はならない。私の郷里・甲州も協力一致のできない国柄であって、個人経営の企業はたくさんあるが、株式会社は成立しないのである。雨宮敬次郎氏、根津嘉一氏(=共に山梨県出身の実業家)なども、故郷では余り評価されていない。人の成功は褒めず、失敗には興味を持つという人心からである。そういう人はこの郡是にも見られる。それでは人は進歩せず、逆に退歩してしまう。新聞の三面記事を担当する記者なども、普段から社会の底面に出入りしている所為か、あまり人格高潔な人物を見た事がない。
「(君子は)人の悪を称する(=あげつらう)者を悪む」(論語・陽貨)
「夫子(=孔子)は人の一善を見て百非を忘る」(孔子家語)
人の悪を見て謗らず、反ってそれを救うのが愛である。それでこそ人を教え育てる事ができる。然るに事実はその逆で、「凡人は人の一非を見て百善を没す(=忘れる)」である。
人の心は千変万化する。昔、人形芝居というものがあって、箱の中に様々な面相の人形を入れて置き、時に応じ、話に応じてこれを出して演ずる。人の心もこれと同じで、鬼も出れば仏も出る。時に聖人が迫害されるのもその為である。
アメリカ辺りでは平民主義を尊んでいるが、それは本来、徳や智や力や富の恩恵に、みんな平等に与かろうというものであって、決して私欲に従って国全体を引き下げようというものではない。フォード(=米国の自動車王)は、「能力の低下を来たす民衆主義は無意味なり」と警告している。
近時、我が国においても無産階級代表の事(=無産政党が帝国議会に議席を得たのは昭和3年の普通選挙実施以降)を力説する動きがあって、殊に政治界に多年の経験を有している犬養毅氏(=政友会総裁。昭和7年、五・一五事件で殺害された)などもこれを口にしているが、それは僻論(=偏った議論)というものである。世間は有産・無産ともに無くならぬのが事相(=実相)である。それゆえ、「管仲・晏子の巧烈」に勝る理想を実現して、有産・無産ともに救う事が肝要であり、それには基督の言われた、「牧ふ者(=飼い主)なき羊」を救う事が必要なのである。
(四)古武士の覚悟
今の若者は何事も「古い、古い」と否定するが、そういう考え方自体が古い。イタリアのムッソリーニは会津白虎隊の事績を調べて、非常に感銘を受けたという(=古代ポンペイ神殿の石柱が顕彰碑として贈られ、現在も飯盛山の麓に建っている)。英仏でも、物質文明の行き詰まりを感じて、東洋古代の精神教育を研究し始めた。ところが肝心の日本が、そういう精神を失ってしまったのである。いま時の花見客の醜態など見てもわかる。
戦国の世の三河武士は武士道の精神を残していた。家康はそれに支えられて大事を成し遂げたのである。かつて秀吉から「儂は粟田口吉光(=鎌倉後期の刀工)の剣を持っておるが、貴殿は何をお持ちかな」と問われ、「名刀はございませぬが、命を惜しまざる者・三百騎がおりまする」と答えた。秀吉は黙然としたという。
家康麾下に矢田作十郎と阿部四朗五郎という者があった。矢田は槍の名手で、その兜には鯉の飾りが輝いており、それが戦場に現われるだけで敵は恐怖した。ある時、盟友の阿部が、「その兜を借りて一働きしたいと思うから、ちょっと貸してくれぬか」と言った。矢田は「そなたの如き腰抜けには貸せぬ」と断った。「腰抜けとは聞き捨てならぬ」「兜を『くれ』と言うなら、喜んでくれてやりもしようが、『貸せ』と言うのは、生きて帰る積りであろう。戦場に向かう者が、予め生還を期するようでは、腰抜けでなくして何ぞや」。阿部は深く感じて言葉もなかったという。
会社の根本精神も、この真剣味を以て初めて知る事を得る。文武の道は一(=同一)なりである。
(五)古賢人の跡
北条時頼(=鎌倉第5代執権。隠居後は諸国を巡り、『鉢の木伝説』を残す)は禅において修めた賢人であった。
(話が横道に入るが、過日、豊橋のある人が私を評して、「宗教を世事に利用している」と言った。宗教に生命が籠もっておれば、[時頼の禅と同じく]自然にその精神が教育にも事業にも入って善くなるものであり、またそうでなければ、宗教の価値はないのである。)
この時頼が見出した人材の一人に、青砥藤綱という人(=鎌倉幕府引付衆[=裁判官]の一人。川に落とした十文銭を五十文の松明を焚いて探させた伝説の持主)がいる。この人が未だ抜擢されない頃、曳いていた牛が川に溲する(=放尿する)のを見て、これを叱して曰く、「汝もまた北条公の宣旨(=通達)に倣うか」と。これを伝え聞いた時頼が、藤綱を召し出してその真意を問うた。藤綱は答えて曰く、「期はまさに旱し(=旱魃の最中であり)、民は渇きに苦しむ。この期に当たって公の宣旨は、余りある所に施し、飢民には届かぬ。これぞまさしく牛が水に溲するに異ならず」と。これを聞いて、時頼は大いに己の不明を恥じた。
それから間もなく、「神夢の告ぐる所に依りて」藤綱に任官の命が下った。藤綱はこれを謝絶して曰く、「神託によりて荷禄さるる(=俸給を貰う)なら、他日、神託によりて斬首さるるやも知れぬ。左様な仕官は平に御免仕る」と。いかにも清廉潔白の人であった事がわかる。
(六)油断と戒心
「禍は隠微(=目立たぬ中)に蔵れて、人の忽せ(=疎か)にする所より生ず。故に明ある者は未だ萌さざるに見、智ある者は未だ形われざるに避く」(司馬相如)
これは漢代の名臣にして、天子をも諌めた司馬相如の名言である。忽せの心は成功の慢心に潜む。家康は関ヶ原の合戦後、床几に坐して兜の緒を締め直した。
原料科は諸君の働きによって改良されたが、今後もますます謙遜して研鑚に励まれたい。
(七)絶えず進歩すべし
不断の努力がいかに大切か、これについて東西二つの好例がある。一つは魯粛(=中国三国時代、孫権の右腕と謳われた名将)と呂蒙(=同じく三国時代の猛将。関羽を討ち取った事で有名)である。呂蒙は呉の孫権の家来で、若い時は武勇一点張りの若武者であったが、孫権に勧められて学問に励んだ。幾年かの後、魯粛は呂蒙に会って驚いた。「汝は旧の呂蒙ならず」(=「呉下の旧阿蒙」という言葉はこれに由来する)。すると呂蒙は曰く、「士(=男子たる者)(は)別れて三日(経てば)、即ち刮目(=目を擦って注目する)して相待すべし」と。
いま一つはゲーテとシラー(=共に18世紀ドイツの文豪)である。二人は無二の親友であったが、ゲーテはシラーを評して、
「一週間会わずして彼に会えば、将に別人に接するの感あり」
と驚嘆した。天才は天才を知るものである。
修養上の変化もまた同じ、さすがに一週間では感じられないが、三年も経って旧友に会えば、まるで別人の観があるものである。停滞した者は何年経っても変わらないが、不断に進む者は年々歳々変わる。
特に人を導く者は、常に進歩していないと、誰も着いて来なくなる。信仰・識見・徳・力、全て不断に進んでこそ、人を進ませる事ができる。人は電気仕掛けで動くものではない。人を動かすものは人の誠である。まず自らが進んで、人も進む。まさにそれこそが実修実行という事である。
山月先生文集(145)
山月子『女学雑誌』記事(十九)
帰京の日
三月八日、寝ること暫時、起きて(家を)出づ。長弟と共に九歳の幼弟を伴う。親戚の老夫婦二名(が)、送りて途中に到る。老婦(は)まず別れんとして涙を流し、声を曇らせぬ。三本松地蔵堂の辺に到りて老夫に別る。御殿場停車場まで八里の間、長弟と代わる代わる幼弟を背に負う。
行く行く見る芙蓉の山頭(=富士山頂に)、僅かの雲(が)生ずるを。雲は次第に動きて風となる。凄然として(=寒々として痛ましいさま)寒く、凛乎として(=寒気の身に沁みるさま)烈し。帽を飛ばさるること二度。籠坂峠を越ゆる時は、雲凝りて(=凝結して)雪となる。四顧(=周囲・四辺は)青天(にして)、頭上独り(=のみ)雪(が)降る。芙蓉の山(は)、尋常(=普通)の山に非ず。而して尋常ならざる光景を現出す。
背に負いし幼弟は、時々あどけなき事を言いて我等を笑わしめぬ。黙せしかと思いて見れば、熟睡せる時なり。「お前(=長弟)も一緒に東京へ行って、弟(=末弟)に獅子(=ライオン)を見せてやると宜しいが」と言いしも、停車場に着せる時は、しきりに家に帰りたしと言いぬ。泣くばかりなる面影を見れば、憐れに堪えぬまま、停車場の待合室内にて厳かに黙祷し、静かに熟考し、「幼弟を伴わざること神の御心なり。今は独りにて、智に徳に一層(己を)研くことこそ神の御心なるべし」と思いぬ。
即ち(=そこで)その旨を長弟に話し、更に己の今後の決意を語り、彼の将来の心得につきて談ず。感(は)鬱勃(=胸の思いは高まり)、長弟(は)落涙して巾(=手拭)を湿す。我も悲哀に堪え難かりしが、人の居る処(ゆえ)、辛うじて聖書に眼を注ぎて涙を殺しぬ。ただ書を見る眼の、少しも文字を捉えざりしは是非なき次第(=仕方のない成り行き)なりき。
待つこと長時、汽車未だ来らず。長弟は足傷めばとて、辞して幼弟の手を引き旅宿に向かう。凛冽たる(=寒気厳しい)寒風(が)、雪を吹き来る。我(は)、粛然として(=静かに)見送る。悄々として(=寂しげに)去る二弟の後ろ姿(は)、如何にも憐れに、如何にも寂しく見ゆるかな。丈夫(=成人男子)の胸裡(=胸の内に)、涙(は)満々たり。
仰ぎて望めば、落日まさに芙蓉の山影に没せんとし、山頭(は)雲濛々として雪まさに降る。惨たる(=心の痛む)光景、鉄腸(=鉄のように固い意志)も寸断せんとす。ああ母上のもし生きて家に居給わば、この苦しき哀しき思いをすまじきものを。震うばかり寒ければ、再び待合室に入りて、思いを凝らして黙祷しぬ。
やがて時は来りぬ。切符を購うて汽車に乗じぬ。日は既に没して、寒さ堪ゆべからず。されど情の寒きには幾倍か勝れり。寂寥(=寂しく侘しい思い)の極み、室(=客車)の一隅に眼を閉じて言なく、心を静めて動かず。
既にして(=間もなく)汽車は新橋に着しぬ。それより人力車に乗じて帰社す。時はまさに午後十一時なりき。 (明治25年3月22日 女学生第22号)
愛につきて
(一)愛と欲
紫の朱を奪うを悪む(=純色の朱よりも中間色の紫が人目を引いて好まれように、不純が純粋を駆逐することを憤った孔子の言葉[論語・陽貨]から)。また、欲が愛を誣うる(=ねじ曲げること)を悲しむ。ああ世人は何ぞ愛を軽視するや。愛に清潔・不清潔の別なし。清潔なるものは神より出づ、即ち愛なり。不清潔なるものは世より出づ、即ち欲なり。
ヨハネ曰く、「凡そ世に在るもの、即ち肉体の欲、眼目の欲、また勢より起こる驕愛(=傲り昂ぶった愛)、これらはみな父(=天父)より出づるに非ず、世(=俗世)より出づるものなり」(ヨハネ一書2-16明治訳)。
また曰く、「愛は神より出づ。おほよそ愛する者は神に由て生れ、且つ神を識るなり。愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なればなり」(同4-7~8)と。
パウロは曰く、「肉に從ふ者は肉の事を念ひ、靈に從ふ者は靈の事を念ふ」(ロマ8-5)と。
既に光の有らば、暗からざるなり、既に暗からば、光は有らざるなり。愛ある者は何ぞ欲を行なわん。欲ある者は何ぞ愛に歩まん。天の人は天の心を持し、地の人は地の思いを有す。
(二)愛の苦
パウロの書に曰く、「愛は己の利を求めず、人の益を図り、不義を喜ばずして、眞理を喜ぶ」(コリント前13-5~6明治訳の抄出)と。ソロモン(=ダビデの子。イスラエルの王)は『雅歌』(旧約聖書)に曰く、「ああ愛よ、諸々の快楽の中にありて汝は如何に美はしく、如何に悦ばしきものなるかな」(7-6)と。
世に愛ほど美しく楽しきものあらんや。而して男女の愛を知る者、心に苦痛を感ずるは何ぞや。また夫が心に妻を思い、妻が夫を思うは何ぞや。吾人(=我々)これを考うるに、夫婦が相手を思うは、よく尽し、よく与え、よく益することを得んが為なり。また愛ゆえの苦痛を覚ゆるは、時間・地位・場所等の関係より、思う如くに尽くすこと能わず、意の如くに与うること能わざるより生ず。
(三) 愛と人物修養
愛人の為に尽くすは何の故か。究め来れば、愛する者をして立派ならしめんとするにあり。彼または彼女を立派ならしめんとせば、まず己自ら立派ならざるべからず。彼また彼女をして深く神を愛し、博く人を愛するの偉人たらしめんとせば、まず己自ら神に深愛に、人に博愛なる者とならざるべからず。
而して己が微力は何事をもなすに堪えぬを知り、ここに於いて、彼の為・彼女の為・己の為に、赤心(=真心)よりの祈りの生ずるなり。心は押しやらるる如く基督に向かう。即ちその信と望と愛とは、益々確く、益々篤く、益々大となり、小より大へ、偏より博へ(=偏愛から博愛へ)、《我等の愛》より《基督の愛》へと到るなり。
パウロがピリピ人に送れる書に曰く、「我、キリスト・イエスの心もて爾曹衆てを恋慕することにつきて、その證をなす者(=証人)は神なり」(ピリピ1-8明治訳)と。この境(=境地)に到らば、その人の美はいかばかりぞや。吾人はかくの如き男女を見んことを欲す。
(四) 愛に失望なし
基督教徒の「夫婦」という思いは、互いに相手に尽くさんとする心より、また犠牲・献身の精神より起こる。而してその夫婦の願いを成就し得ざる時は如何に。これを不信者の恋愛に質す(=調べる)に、その愛人(が)もし他の者と夫婦になるが如き事態(に)至らば、世を儚みて、盛りの花を一夜の嵐に散らす(=若き身空で自殺してしまう)が如きの男女の無きに非ず(=ないこともない)。
「吾は実に汝を愛す。されども節義を愛すること、汝を愛するに過ぎずんば(=あなたへの愛よりも強くなかったならば)、吾はかくの如くよく汝を愛すること能わざりしならん」との言葉を以ってこれを推す(=推測する)に、神を愛する基督教徒の愛は、世の青年男女の恋愛よりも、幾々層深きやを知るべからず(=何倍も深いことを知らざるを得ない)。さればその(失恋の)苦痛は、さらに幾々層深き筈なり。而もなお、失望(は)無しと言うは何の故ぞ(=なぜであるか)。
蓋し(=確かに)信者の愛は、基督の心を以て愛することなり。基督は曰く、「我より父母を愛する者は我に協はざる(=不適合の)者なり。我よりも子女を愛む者は我に協はざる者なり」(マタイ10-37明治訳)と。我らが(=我々の)愛は基督より来る。基督を深く愛すればこそ、人をも深く愛することを得るなれ。即ち基督に在る者は、如何に苦しくとも、失望無き筈なり。
基督は嘗てゲッセマネに祈りて曰く、「父よ、もし聖旨に肯はば(=御心に適うならば)此の杯(=十字架)を我より離し給へ。然れども我意のままにとには非ず、ただ聖旨の儘に爲し給へ」(同26-39明治訳)と。神を信愛し、全てをこれに一任し給うこと(は)、我等信者の学ぶべき祈りならずや。
夫婦となるもならざるも、みな我等を愛する神の聖旨なりとせば、我等はいずれとも(=いずれにせよ)これを感謝すべきなり。
(五) 円満の愛
「我、愈々爾曹を愛すれば、愈々爾曹に愛せられず、されど喜びて爾曹の霊魂の爲に財を費やし、身を盡すべし」(コリント後12-15明治訳)と言いしパウロの心(は)、如何に美わしく、如何に大なるかな。
「父よ、彼らを赦し給へ、その爲す所を知らざればなり」(ルカ23-34)と、十字架上に己を殺す者の為に祈り給いし基督の心に至りては、我等(は)何の言を以てこれを讃美すべきやを知らざるなり。ああ我等(は)深くこれを思わば、よく円満の愛を悟ることを得ん。
(明治25年3月26日 女学雑誌310号)
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