今日のこの喜ばしき落成式に臨み、諸君と共に深く考えてみたいと思うことは、誠修学院は一体どこに在るのかということである。「ここにちゃんと在るではないか」、そんな平凡な答えは求めていない。
古の聖人は「汝自身を知れ」(ソクラテース)と言った。もしこれに対して「自分はこれこれしかじかの者である」などと答えたら、実に愚かしいことになってしまう。ソクラテースが言ったように、真に己を知っている者など、世界に人多しといえども、ほんの僅かの聖人、または聖人の心を得た少数者以外、ほとんどいないのである。早い話、果たして諸君はソクラテースの前に、「己を知れり」と言い得るかどうか。「学院は何処に在りや」という問いも、これと同じである。
会社全体の仕事をしている所は、当社の《体》に当る部分であり、学院はその《精神》を定める所である。ではその精神とはどういうものであるか。何度も言うように、それは誠を土台とし、完全の天道を望んで進むものである。それがすなわち《活きた学院》である。
学院は学舎を指すのではない。学舎を飾って喜ぶようでは、世間一般の成金者と大差ない。真の学院は諸君の心中にこそある。心中の学院を高く築いて、生命なき建物に心血を注入しなければならぬ。この建物を活かすか殺すか、引いては会社全体を活かすか殺すかは、一に以って諸君の心掛け次第である。
その責任重大なることを思い、諸君一人一人の使命の厳粛なることを自覚して、勇者が戦場に臨むがごとき大決心を持って、この学院を築き上げて行かねばならないのである。これはただ学院の諸君のみならず、ご列席の各課長諸君もまた同じことで、もしその心中に活きて成長するものがなければ、その生涯は死せるも同然である。
社訓の精神は何回となく語って来たが、これを実際に行なうことはなかなか容易なものではない。社長・専務は会社を代表してこれを実践しようと努めておられるが、日々実地に試みておられるがゆえに、その困難さを人一倍実感しておられることと思う。キリストが「己が十字架を負ひて我に從へ」(マタイ16-24・他)と言われたのは、まさにこれである。「自ら十字架を負わん」という気概がなければ、なかなか実行できるものではない。理解するだけならまだしも、これを己の人格に実現し、道徳に実現し、事業に実現するとなると、非常な覚悟が必要となる。ゆえに本日は、さらに社訓の事を話してみたいと思う。
- 完全なる天父に対する完全なる信仰
- 完全なる人格
- 完全なる勤労
この(一)と(二)が基礎となって、(三)が生じる。その事実をはっきり知ることが極めて大切である。思うに、格別なる怠け者は論外として、当社に働く大多数の人は、みなそれぞれの力を尽して努めているものと信ずる。しかし果たしていかなる所に尽力しているのであろうか。眼に見える業績を挙げんがために、勤労することに主力が注がれているのではないか。某工場長が、「日々骨折っているけれども、うまく行かぬのはなぜでしょうか」と専務に質問したそうである。いくら社訓を諳んじていても、その最も大切な所を取り違えていたのでは、決して完全なる結果は生まれないのである。もし「工場教育には信仰が役立つ」などと考えるならば、それは神を商売に利用せんとするもので、そんな不敬虔な考えでは、真の成績など挙がろう筈もない。
近来、《価値判断》ということが世界的に問題となり、哲学上にまで及んでいるのであるが、そのこと自体、物質文明の弊害の一面であると言うべきである。およそ有形無形一切を、その実用価値のみによって判断することは頗る困難である。人生に最も大切な道の事、精神上の事などは、容易に判断できるものではないからである。
もし諸君の命を一億円で買いたいという者が出て来ても、それに応ずる者はあるまい。昔、エリザベス女王閣下(=英国のエリザベス1世。在位1558~1603)の病篤き時、「我が寿命をいま少し延ばし得る者あらば、百万円を下し置かん」と言った。今の金に直せば相当の金額であろう。それでも誰一人、寿命を延ばすことなどできなかった。
このように、帝王といえども如何ともし難い生命というものを、諸君一人一人が有している。当社一万有余の人も等しくこれを有している。それを預かる会社の責任は大変なものである。
肉体上の生命でさえ、それほどに尊いのである。まして精神上の生命は、天地の神にも通じる重要なものである。キリストが「なんぢら人を審くな」(マタイ7-1・他)と言われ、また「悔改むる一人の罪人のためには(・・・・)天に歡喜あるべし」(ルカ15-7)と言われたのは、そのためである。果たして我々は、それほどまでに個々の人格を重んじているかどうか、深く省みる必要がある。
たった一人の罪人の魂が救済されても、この天地に歓喜が充ち渡る。この宇宙間にはそれほどに尊いものが厳然として存在しているのであって、人はその神の子であるということがわかって、初めて天父に対する完全なる信仰というものがわかるのである。
それがわかって、再び「学院は何処に在りや」と考えてみるに、学院はまさにこの天地に遍満する(=遍く充満する)ものである事を知る。なぜなら、学院の土台である《誠》は天地に塞がって(=充足する)おり、その目標とする《完全》は、この宇宙を経営する神そのものに由来しているからである。
天地の大精神の上に立っているというこの信念が確立する時、全てのものを包容し、己をも、人をも、事をも、みな完全にしようとする心が湧き出でて止まないようになる。ここに至って初めて完全の勤労をなし得るものであり、完全の成績を挙げ得るものであることを知る。それがすなわち当社の社訓の精神である。
次に申し上げたいのは、協力一致の大切さである。先ほどの祈祷にもあったとおり、共同社会において、協力は非常に大切である。パウロの言に、「足もし『我は手にあらぬ故に體に属せず』といふとも、之によりて體に属せぬにあらず。耳もし『われは眼にあらぬ故に體に属せず』と云うふとも、之によりて體に属せぬにあらず。もし全身、眼ならば、聽くところ何れか。もし全身、聽く所ならば、臭ぐところ何れか」(コリント前12-15~17)とあるが、等しく神の中に生まれ、その摂理(=神の計らい)によって同じ会社の中に働きながら、しかも他を非難して己を省みないような狭い心は、人々の中になお根強くあるものである。課長諸君もそこをよく弁えて、部下を訓戒してもらいたいものである。
他を非難するのは、他をよく知らないためである。それでは一致協力ができず、従って完全なる成績を得ることは望めない。教育と業務、業務と教育、これが互いに表裏しているがゆえに、教育課は工務課の苦心を知らず、工務課は教育課の辛苦を知らない。互いに己を誇ることなく、謙遜して互いを学び、よく理解して助け合いつつ、共通の目標に向かって進んで行くようにしなければならない。もし右手が傷つけば、左手がこれを助けるのが当然である。
先ほど朗読を願った聖書にもある如く、「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ、これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり」(マタイ5-44~45・他)、この心を思う時、お互いが相協力していくことは寧ろ当然過ぎるほどのことである。
他社など見るに、互いに他部署の短所を見つけては非難し合い、教育部門に至っては、賽の河原の石積みのごとく、積んでは崩され、崩されては積むという状態に置かれていることが多い。
私は常々「教育が事務的になると、教育が死ぬ」と言っているが、それは教育者は事務が下手でもよいという意味ではない。およそ教育は、その成果を数値で表示できるようなものではないと言っているのである。ところが文部省などは、何でも数字で報告せよと求めて来る。そうなると、完全なる信仰など肝心な点は骨抜きになり、専ら眼に見える成績のみに力が注がれるようになる。ちなみに仏教界を見ても、世事に明るく、交際の上手な僧侶が、信者を集めて持て囃される。
しかし当社の理想は《完全》にあるから、何も禅僧のように寺院に閉じ籠って、実務など閑却(=なおざりに)せよと言うのではなく、教育も事務も二つながら完全であるよう努める。けれども教育者の主体とするところは、あくまで教育であり、しかもその教育は数字を以って計算すべきものではない。人を導いて敬虔の念を発せしめ、献身の心を起さしめ、その誠を育てていくものである。
孔子が「天何をか言うや。四時行なわれ、百物生ず(=天が何を語るだろうか。けれども四季は巡り、万物は生え育つ)」(論語・陽貨)と言ったのは、これ教育の極意に他ならぬ。神の声は語らず言わずして天地に響き、自然に万物を生育させるのである。
願わくは互いに相援け、相補い、その活きた教育を事業の上に働かせ、当社の事業を永年に進展させて行ってもらいたい。これをなすもなさぬも、諸君の精神一つに存する。なにとぞ本日の式を記念として、有形無形がよく一致協力して、各人を活かし、学舎を活かし、さらに社会を活かして、日本を感化し、世界を感化し、もって完全なる貢献を果たさねばならぬ。
これは私個人が言うのではなく、神の心を受け継いで語るのである。ゆえに権威を以って諸君に言う、「どうか小我を棄て、公正なる考えを持し、以ってその実現に努力されんことを希求する」と。
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