山月御教話・続編(十五)

基督の心第三〇九集   

山月御教話・続編(十五)                  

石田秀夫先生筆録

神人合一の境地(続き)             

昭和十年六月九日 於 東京教会

「吾、十有五にして学に志し、三十にして立つ」(論語・為政)

この《学》は、今の人が学校で学ぶくらいの意味ではない。天道・人道を学び知ることである。それでも《而立(じりつ)》(=三十(さんじゅう)而立(にしてたつ))まで十五年かかっている。すなわち十五年の修業を積んで道を修め、その道の上に立つことができるようになった。あれだけの人が十五年間、専心修業していったのである。

ルーテルはウォルムスの会議で、自らの信仰を(ただ)された時、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできぬ。神よ、助けたまえ」と述べたとされる。これには当時の帝王も宗教家も、何も言うことができなかった。

孔子はさらに十年修行して《不惑(ふわく)》(=「四十而(しじゅうにして)不惑(まどわず)」)となった。

偉い人ほど誘惑が強くなる。「高木は風に折らる」(古諺)である。スポルジョン(=19世紀英国のバプテスト派伝道師)は、「先生ほど偉くなれば、もはや悪魔の誘惑など無くなるのでしょうね」と問われたのに対して、「いやいや、私の所には悪魔の親分が来ますよ」と答えたという。私なども、若い時は早く悟りの境地に出たいと思ったが、こちらの心構えが(いま)だできていないうちに、早々(はやばや)悟ったりすると、その後が危ない。早く進まないことが(かえ)って()かったのかも知れない。

孔子は《不惑》に達して、さらに十年修業して《()天命(てんめい)》(=「五十而知天命(ごじゅうにしててんめいをしる)」)に至った。「汝が学び(きた)ったところを(もっ)て、これより立って天下万民を救え」という天の命を聞いたのである。それでようやく、五十歳にして政治に(たずさ)わった。(ちな)みに釈迦が衆生(しゅじょう)済度(さいど)の自覚を得たのは三十五歳、基督(キリスト)は三十歳である。しかし孔子の善政も僅か五年しか続かず、後は不遇のままに終わった。

今の人は、「忙しくて教えを聞く暇がない、修行する時間が取れない」などと言う。伝記など見れば孔子の日常など実に多忙である。それで修業を中止したかと言えば、()めてなどいない。東奔西走、席の温まる(いとま)もない中に修業を続け、ついに六十の時、《()(じゅん)》(=「六十而耳順(ろくじゅうにしてみみしたがう)」)に達した。人から何を言われても、そのまま受け取れる心境である。相手の精神状態が手に取るように見えるから、気の毒に思いこそすれ、腹の立てようもないのである。

パウロは、「(れい)(ぞく)する者は、すべての事をわきまふ(=理解する)、(しか)して(おのれ)は人に(わきま)へらるる事なし」(コリント前2-15)と言った。私の場合も、述べ十数万の人を教えて来たが、私の全てを《(わきま)えている》人など、五人あるかないかである。けれども霊の上の事は、そう簡単にわかるはずもないと思うから、腹が立つこともない。

孔子は老境に入っても修業を()めなかった。普通なら隠居してもよい年頃に、なおも諸国を周流し、六十九歳の時、ようやく故郷に戻り、七十歳では、思う事・言う事・行なう事が、全て道に(はず)れなくなった(=「不踰矩(のりをこえず)」)。心が天と一つになったのである。私は、神を知る事にかけては孔子以上であるが、実際の行ないは(いま)だ孔子に及ばないと思っている。

パウロは孔子と同じように学んだ。

(ただ)この一事(いちじ)を務む」(ピリピ3-13)

 《一事》と言っても広大・無辺の一事である。長さは過去・現在・未来にわたり、広さは宇宙一杯に(わた)っているのである。およそ宗教の祖師・開祖と言われるほどの人は、みなこの《一事》を悟得している。澄み切った綺麗な心で、(うしろ)のものを忘れ、恩を施した事も、傷つけられた事も忘れて、「神のキリスト・イエスに()りて上に召したまふ(めし)にかかはる褒美(ほうび)(=神がキリストを通して天上へ導いて下さるという褒美)を得んとて(これ)(おひ)(もと)む」(同-14)。

生きた神の力が自分の中に入って、上に引き上げてくださる。そうなれば、去年と今年、今月と来月とでは、自分が違って来る。

 基督は神を父子の関係によって示された。旧約の神は天上に君臨する神、(ねた)む神・(いか)る神であって、人間が直接その姿を眼にしようものなら、即刻死ぬかも知れない畏敬(いけい)すべき神であった。それを基督は慈愛ある父親としてお示しくださった。父であるから、これを愛し親しみ、(なつ)き甘えてよいのである。しかしそうかと言って、いつまでも親離れしないのは不自然である。「()えば立て、立てば歩めの親心」である。(とし)相応(そうおう)に育っていかねば、親は心を痛める。年々、着実に成長して、親の代りが勤められるようになることこそ、恩返しというものである。基督はご自分の名代(みょうだい)となるべき十二人を選んでおられる。パウロも「標準(めあて)(=目標)を()して」進んだ。この《標準》はすなわち《完全》のことである。完全の八方面に(つら)なって、生きた関係を持つことである。

 私もそうなりたいと思い、決死の覚悟で(みや)()()の原で端坐(たんざ)・瞑想した。その結果、「面帕(かほおほひ)なくして鏡に映る如く、主の榮光を見る」(コリント後3-18)の経験に入ったのである。仏教・儒教の人ならそこで止まってしまうのであろうが、こちらは完全を《標準》に掲げているから、一度の見神体験などほんの入口で、さらにどこまでも進む。それが「栄光から栄光に進む」ことである。

信と修は一体である。《小我》を取り去れば、神の霊が上から(くだ)って、邪魔なものを取り除いてくださる。基督の人格に同化されて小基督になるのである。パウロはそれを「(うみ)苦痛(くるしみ)をなす」(ガラテヤ4-19)と言った。

宗教と教育は一体である。まず自分がその経験をしない限り、人を導く事などできない。そうするには、悔改・信頼・信仰・実行・勤労の間に、いかなる苦しみがあろうとも、光を見つめて希望を失わない。「()(かた)つくれども希望(のぞみ)を失はず」(コリント後4-8)、希望は信仰箇条(=お題目)ではない。

それから愛慕である。親を慕うようにしてついて行く。「愛するは似るの初めなり」(出典不詳)、俗には「似たもの夫婦」などと言う。十九世紀後半、英国の大宰相(さいしょう)・ディズレリー(=保守党党首。2期6年間、首相を勤めた)は、「英雄たらんと欲するは、英雄たるべき階梯(かいてい)(=はしご)なり」と言った。その言葉どおり、ユダヤ出身という不利を乗り越えて首相となったのである。

ディズレリーや王陽明(おうようめい)(=明代の大儒者。聖人たらんと立志して励んだ)より以上の完全の理想を(いだ)けば、絶えず進んで、心が広く大きくなり、磐石(ばんじゃく)の如き堅固な心境に入ると共に、心が柔和・謙遜になって、優美と剛直が一つに修まる。それを小学校程度の低い所に安んじて、停滞してしまってはならない。初等教育でも宗教でも、初めは(やさ)しい所から始めて、だんだんに育てていく。それが天地の親たる神の御心(みこころ)である。それがわかると、神が天地を美しく、(きよ)くなさっていく過程がわかる。

人生は()くの如きもので、個人・家庭・学校・企業・国家が天国になり、国と国が天国になるのが神の御心(みこころ)である。そうなるには一人一人が学修、進歩、向上、合一し、それによって、神がこの世を進化・聖化なさる働きと合流していくのである。この大精神をよくわかって、完全の信仰も日々着々進んでいくようになりたいものである。

郡是(グンゼ)本宮(もとみや)工場ご教話                     

昭和十一年某月某日

かつて当工場(=在・福島県本宮市)が未完成の時に(おとず)れ、((まゆ)の)乾燥場を借りて講話したことがある。それで竣工(しゅんこう)(あかつき)には、ぜひ再訪してお話をしたいと思い、工場長もそれを望んでおられたのであるが、諸般の事情で実現できず、今回、仙台の東北学院(=押川方義師創設の神学校)の創立五十周年記念式があり、それに出席するため、三月一日に家を()ち、京都・大阪・綾部・沼津・甲州・東京・仙台と回って、ようやくここへ来たのである。

郡是では諸君の健康・衛生に配慮して、いろいろ工夫しているので、まずそれについて考えてみたい。

 (第一)健康・衛生

 健康に留意しないのは、当人の不幸であるばかりか、広くは国家の損失でもある。明治維新の頃、皆がその死を惜しんだ人に山岡静山(せいざん)がある。天下無双の槍の(つか)い手で、精神が立派で、人柄は誠実、血のにじむような修業を重ねて、二十代にして既に日本一の名人になっていた。

 (しか)るに当時は健康知識が(とぼ)しく、主食は白米が上等と信じられていた。(当社の衛生顧問の)(ふた)()(けん)(ぞう)博士(=日本伝染病学会初代会長。文化勲章受章者)は早くから玄米食を提唱されておられ、岩波(茂雄)氏(=岩波書店創業者)は二木氏の説を聞いて、従業員に玄米を食べさせて、(反発を買い)ストライキを招いたことがある。静山も白米を食べ続けて脚気(かっけ)を発症していた。

 折しも、静山の師匠が反対派に(うと)まれて、隅田川における遠泳に誘い出されてしまった。静山はそこに奸計(かんけい)(=悪だくみ)あることを悟って、病身を押して身代わりに川に入り、たちまち心臓発作を起して死んでしまったのである。二十七歳の若さであった。

 彼に妹が一人あり、山岡家を継がねばならぬこととなり、小野鉄太郎を婿(むこ)に迎えた。これが後の山岡(てっ)(しゅう)で、西郷隆盛が明治天皇の教育係に抜擢(ばってき)した人である。この人は剣の名手であったが、大酒呑みでもあった。およそ豪傑というものは、「斗酒(としゅ)なお()せず(=一斗[18㍑]の酒をも(こば)まぬ)」という風潮があって、()く言う私なども、信仰のない時分には、とても信じて貰えないような暴飲をしたものである。

 この鉄舟が水戸(みと)の酒豪と飲み較べをした時は、相手は五升で倒れたが、さらに二升呑んで、平然と帰って行ったという。食べる方も健啖(けんたん)(=大食)で、安倍川(あべかわ)(もち)を百八個食べたとか、ゆで卵を九十七個食べたとかいう話が残っている。とうとう三十四、五歳の頃、胃に()(もの)ができ、胃癌と診断された。さすが精神が(きた)えられているので、取り乱すこともなく、平然として生き続け、五十三歳で死んだ。生きていればまだまだ役立った人を、健康に留意しなかったばかりに、早々(そうそう)に失ったのである。

 先ほど申した東北学院を建てたのが押川方義先生で、明治・大正・昭和を通じての大人物であった。日本中から先生を慕って英才が集まっていた。先生はお仕事の為にはご自分を(かえり)みることがなく、「今のままではお倒れになります」という忠告を無視して働かれ、田中義一(ぎいち)(=対中国強硬派の首相)と満州(まんしゅう)を買い取る算段をなさっておられる最中、昭和三年一月十日に亡くなられた。

 そうであるから諸君も、精神の健康だけでなく、身体の健康にもよく気をつけて、せっかく与えられた命を大切にして、長く社会のために働いて貰いたい。そのためには、工場長・衛生係の言う事をよく聞いて、丈夫な心身を鍛えねばならない。

(第二)喜んで忠告を聞く

 《忠告》の逆で、人の機嫌を取るだけの言葉を《()(げん)》という。精神上の修養を考えない人は、自分の気に入らぬ言葉は、たとえ善意から出ていても聞かないし、気に入る言葉なら、悪い事でも喜ぶものである。昔の偉い人は、自分に()(へつら)うような者は退けた。毛利元就(もうりもとなり)は、家来が媚びて、「殿(との)(ぎょう)(しゅん)(=共に古代中国の伝説的聖天子)にも(まさ)る名君であります」と言うのを聞いて、「自分は(いま)だ尭舜に遠く及ばぬ。彼らはこんな(てん)(しん)を持たなかった」と嘆いた。

 英国王の家来が、「陛下のご威光は限りなく、今やお言葉どおりにならぬ事など御座(ござ)いませぬ」と持ち上げた。王は黙ってその臣下を海岸に連れて行き、打ち寄せる荒波に向かって「波よ、(しず)まれ」と命じて見せた。当然、波は収まらない。「(ちん)(=君侯の自称)の意向など少しも通ぜぬわ」と言うと、大臣は本心を見抜かれて恥じ入った。

 自分の《実際》が大事であって、信仰・修養を積んだ人なら、過分に褒められることを恥じ、至らぬ点を指摘されて喜ぶ。凡人は逆で、例えば顔にちょっと(よご)れが付いているのを教えられれば感謝するが、もっと重大な、心の(けが)れを(さと)されようものなら、たいてい逆恨(さかうら)みする。

 山岡鉄舟は、ある事件に関して過激な意見書を(したた)めた。お付きの者がそれを(いまし)めて、「書いた物は後世まで残りますから、充分配慮してお書きになるべきです」と言った。鉄舟は「よくぞ言ってくれた。人がいろいろ言うので、つい感情に走ってしまった」と猛省し、改めて書き直したという。

 蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)(=浄土真宗中興の祖。石山本願寺開山)は、自分の言行を(かげ)で悪口する者があると聞き、「人から言われぬと気付かないことがある。(めん)と向かっては言い(にく)かろうから、陰でなりとも言って貰えるなら有難い」と喜んだという。後世に名の残るような人格は、こうして()ったのである。

 私は二十七歳で押川先生に()いたのであるが、学校の教育方針について、先生と考えの違う所があったので、()えて意見を申し上げたところ、先生は黙ってお聞きになり、「そこまで学校の事を考えてくれて、有難いと思う」とおっしゃってくださった。

 人の忠告を素直に聞くことは、自分の進歩に大変役立つことであるから、忠告してくれる人に出会ったら、大いに感謝して耳を傾けるよう心掛けたい。

 (第三)正しい行ないをなす

 中国三国時代に徐庶(じょしょ)という人(=軍略の士)がいた。初め劉表(りゅうひょう)(=荊州(けいしゅう)の長官。名門出の美丈夫(びじょうふ)であったが、優柔不断で天下を(のが)した)に(つか)えたが、間もなく辞して去った。先輩格の司馬徽(しばき)(=人物評をよくした隠士(いんし)。別名・水鏡(すいきょう)先生)から、「どうして劉表を見限ったのか」と問われ、「劉表は善の善たるを知って(これ)を行なわず、悪の悪たるを知って之を行なわざる(あた)わず。およそ仕うるに()らず」と切って捨てた。

 一つの敢行が一つの勇気を生む。戦争でも一度勝つと勢いがつく。私の友人で克己心の強い人がいた。最初はむしろ意志の弱い人間であったが、ある時、食事の事で悩み、三日三晩かかって初志を貫徹してみせた。それから次第に意志堅固になっていったという。

 人格の涵養(かんよう)(=養い育てる事)が大切なのである。私は東京で大学生の教育をしているのであるが(=「学生修道院」を主宰)、就職の時には会社の重役が出て来て人物審査をする。息子の嫁を()るにも人物を見る。私の所では、誰が見ても尊敬できるような人間を育てる教育をしている。単に会社や工場に役立つ若者ではなく、人間として一生涯有意義に、自他ともに幸福に暮らせるような人物を育てたいと思っている。

(第四)礼儀作法

  [この項、筆録なし]

(第五)信仰

 眼には見えぬが、神という存在がこの天地一杯に(いま)して、その御心(みこころ)は誠そのものである。天地は神の定めた法則のとおりに動いている。我が社の社訓はこの神の誠から来ているのであるから、自然そのものである。

 泥棒でも人目のある所では盗みをしない。神を信ずる信仰があれば、(ひょう)()陰日向(かげひなた)もなくなり、むしろ人目のない所ほど行ないを慎むようになる。それが「誠を一貫する」ということである。社訓の最初に《信仰》を置いたのはそのためである。

私自身、そのとおりにしている。一言を発するにも、一事を行なうにも、天において神が(よろこ)び、地において人が喜ぶようにと心掛けている。

神の至誠は人にも感応する。今、こうして誠の話をしているこの堂内にも誠は満ちて、諸君の上に働いている。学問の有無、男女・長幼の別なく感応し、諸君にも、明治天皇にも、楠木(くすのき)正成(まさしげ)にも、大西郷にも感応している。

この感応を受けると、いま話した(第一から第四までの)ことは自然にできる。そうなれば、たとえじっとしていても人の精神を高く、広く、(きよ)くしていくことができる。諸君も皆そうなれるのである

教訓集第三巻より

純一の勤労・純一の修養        

大正十五年五月二日 於・本社職員修養会

聖書朗読 マタイ伝第二十二章三十四節から四十節(略)

ただいま朗読した中の、「心を(つく)し、精神を盡し、意を盡し」とあるのが、純一・誠の精神である。社訓を制定して以来、誠という事については、たびたびお話して来たから、諸君はよくわかっているはずである。(しか)してなかなかその効果が上がらなかったのであるが、(ようや)く最近、各工場において少しずつ良くなって来たようで、先刻も専務から岡山の工場について報告を受けて、喜んでいる所である。

誠についての説明はもう済んでいるので、今日はこれに関する実際の例話を挙げて考えてみたい。

(第一)純一の勤労

学問研究に純一であったのはメランヒトン(=16世紀ドイツの人文学者。ルターの思想の体系化に尽力した)である。彼は多忙の中、執務の時間割を作り、毎日十四時間ずつ働いた。それでも来客などがあるので、予定通りには進まない。その遅れは必ずどこかで取り戻すようにし、決して等閑(なおざり)にはしなかった。私も修業の方では寸暇を惜しんで励んだ。道を歩く間も瞑想などして、人が空費する時間を有効利用した。メランヒトンもそうだったのである。

ミル(=19世紀英国の哲学者)は英国の東インド会社の()(いん)であった。イギリス人は勤務には厳しい。彼は貿易会社の激務の中で、あれだけの学問を積んだのである。しかも彼の学説は全て彼自身が考え出したものである。今の人は読書して本に呑まれてしまい、(みずか)ら考える事をしない。よって、「君自身の考えは如何(いか)に」と問われれば、沈黙するしかない。

ミルは道を歩く間も思索に(ふけ)っていたので、よく郵便箱(=郵便ポスト)や街灯の柱にぶつかった。ある時など荷馬車に突き当たって、相手が馬だとも気づかず、帽子を取って丁寧(ていねい)()びて笑われた。次には淑女と衝突し、また馬か思って、「こん畜生」と怒鳴ってしまい、大いに顰蹙(ひんしゅく)を買ったと言う。 

ムンゼン(=テオドール・モムゼンか?)はドイツの法学者で、文学の素養もあって、あのゲーテの詩などは大方(おおかた)、暗記していたという。当時は照明と言えばランプか蝋燭(ろうそく)であった。その火に顔を近づけては細かい字を読んでいたので、彼の前頭部の髪は熱でいつも(ちぢ)れていたそうである。

またその書斎は乱雑を極め、足の踏み場もないほどであった。ある日など、妻の留守中に託された(おの)幼児(おさなご)が、知らぬ間にどこかへ()って行ってしまわないよう、反古(ほご)と一緒に紙屑籠に入れていたという。真理一筋(ひとすじ)に生きる学者というものは、子供のように純一なのである。

米国のルーズヴェルト(=第26代大統領セオドア・ルーズヴェルト)は(かね)()(けん)()(ろう)氏(=明治期の政治家。大日本帝国憲法の起草に参画。皇室典範などの諸法典を整備した)とは学友であった。その他にも多くの邦人の知り合いがあったが、それらの人達は、何ゆえルーズヴェルトの如く頭角を現す事なく終わってしまったのか。勤勉が足りなかったのである。

世界に威を誇るドイツのカイザー(=ドイツ皇帝の称号。特にウィルヘルム2世を指す)でさえ、このルーズヴェルトには一目(いちもく)置いていた。それくらい誠意の念の(あつ)い人だったのである。その芽生えは少年期に(さかのぼ)る。ある日、知人の家を訪ねて、リンカーンの伝記を見付けるや、一心不乱に読み(ふけ)って時を忘れ、読み終えた時には、自分が今どこにいるのかも忘れていたという。この熱誠を以て職務に当り、一生聖書を手放さなかったので、近代(まれ)に見る傑出した大統領となったのである。

ニュートン(=17世紀英国の物理学者。万有引力の発見他)の有名な逸話としては、懐中時計を鶏卵と間違えて()でてしまった話が有名であるが、いま一つ、幻の昼食の話がある。

 ある日、友人が訪ねて行くと、召使が出て来て、「主人はただ今、研究に没頭しておりまして、何を申しても耳に入りません。お昼には食堂に下りて来ると思いますので、どうかそちらでお待ちください」と言われた。しかし待てど暮らせど、一向に出て来ない。眼の前にはすでに昼食が用意されており、いかにも食欲をそそるので、友人はつい()まみ食いを始めて、とうとうあらかた食べてしまった。

 それでも出て来ないので、諦めて帰ってしまった。ようやくその頃になって、ニュートンも空腹を覚えて食堂に姿を見せた。ところが食卓を見ると、食事はすでに終わった形跡である。「ほほう、自分はいつの間にか食事を済ませて、無意識に部屋へ戻ったらしい」と、(ひと)り納得して、そのまま引き上げたという。文字通り寝食を忘れていたのである。

 (第二)純一の修養

 エドモンド・キーン(=19世紀初頭、一世を(ふう)()したシェークスピア俳優)は英国切っての名優で、さしずめ日本の(市川(いちかわ)団十郎(だんじゅうろう)の如き名声を誇っていた。特に悪人に扮しての演技に入神の(みょう)を見せた。役者を天職と考え、一心に役作りに励んだのである。あのバイロン卿(=19世紀、英国ロマン派の詩人)でさえ、その迫真の演技に打たれて気絶した事があるという。

 サルバーク(=19世紀イタリアのバリトン歌手サルバトーレ・マルケージか?)は声楽の妙手(みょうしゅ)で、ある人がその(しん)()所以(ゆえん)を問うと、「聴衆の前で歌うには、最低五百回の練習を繰り返します」と答えたという。

 山東(さんとう)京伝(きょうでん)曲亭(きょくてい)()(きん)(=共に江戸後期の()(さく)(しゃ))の先輩格であるが、毎回、創作する前には非常に苦悶して考えた。良い案が浮かべば夜中でも飛び起きて執筆した。また書き掛けの一節を大声で口ずさみながら、家の(まわ)りを歩き廻って、近所から苦情が出た事もある。()(ろう)な(=不浄な)話であるが、(かわや)に立つ(=便所へ行く)間も惜しんで、部屋に御虎子(おまる)(=簡易便器)を置いていたとも言う。

 (そう)()(=室町末期の(れん)()師)は連歌俳諧(はいかい)において名高い人である。ある時、旅先で日が暮れ、泊まる宿も見当たらぬので、(むら)(はず)れの無住(むじゅう)の荒れ寺に入り込んだ。真夜中頃、何やら話し声がするので、そっと(ふすま)の隙間から(のぞ)いて見ると、僧形(そうぎょう)の者が(ひたい)を集めて話し込んでいる。思わず耳を(そばだ)てると、

 「・・・・()(よい)の月は空にこそあり」

 と繰り返しては嘆息しているようである。「必定(ひつじょう)(=きっと)これは、当寺の先代が()んだ句の(まえ)()(づけ)けができず、代々の住職が呻吟(しんぎん)し続けて、夜な夜な亡霊となって出て来ているに違いない。気の毒な事よ」と宗祇は思い、

 「宿るべき水も氷に閉じられて、今宵の月は空にこそあり」(=人々の心は氷で閉ざされて、真如(しんにょ)の月も空しく(ちゅう)(ただよ)う)と付けてやった[=編註:当時は水に写る月を()でるのが月見であった]。すると亡霊たちは大いに喜んで、雲散霧消(うんさんむしょう)して二度と出て来なかったという。

 もう一例は、北山の大徳寺の門を建てた無名の棟梁(とうりょう)(=(だい)()(がしら))の話である。その門は、寺から求められた寸法どうりに造ったのでは、どうしても()(しゃく)に合わず、高さが一尺ばかり低いのである。悶々(もんもん)と悩んだが勝手な変更は認められず、言いつけどおりに落成させた。世人はみな()(たた)えたが、自身はどうにも満足が行かぬ。ある日、大工と(おぼ)しき二人の男が通りかかって、「これはどう見ても、間口に比べて(たけ)が詰まっている感じがする。他は良くできているのに、惜しい事だ」と言うのを耳にして、「やはりそうか」と落胆し、以来食欲も失せて、とうとう病にかかって死んでしまったのである。

世間はこれを、「気の小さい男だ」と無下(むげ)に(=非情に)評するかも知れぬが、昔の職人は()くまで己の仕事に誇りを持っていたのである。今時(いまどき)の大工とは雲泥(うんでい)の差である。先般、愛知県の教育者の会で聞いた事であるが、某校の新築工事に非常な手抜きがなされて、早くも二階が落ちそうになっていると言う。見えない所はどうでもよいという、実に嘆かわしい風潮である。

柳生(やぎゅう)但馬(たじま)宗矩(むねのり))(=江戸初期、柳生(しん)陰流(かげりゅう)の達人)は長い修練の結果、背後から斬り掛かられても、その殺気を感じて(かわ)せる境地に達した。そんな話は芝居や講談の()(そら)(ごと)と思うかも知れないが、真剣に修行を積んで行けば事実そうなるものである。

それは既に《道》に立っているのであって、道の修まった者には人の精神状態が手に取るようにわかる。但馬はある時、一小竪(しょうじゅ)(=お(とも)(どう)())に刀を持たせて花見に出掛けた。のんびり花を見上げている主人の後姿を見て、小竪はふと思った、「今、後ろから斬り付けたら、斬れぬ事はあるまい」と。すると但馬は急に背後を振り返り、小首(こくび)(かし)げるや、そのまま来た道を取って返し、帰宅するや、縁側(えんがわ)端坐(たんざ)して沈思に(ふけ)り始めた。   

家来が(いぶか)って、「どうなされましたか」と問うと、「(わし)はこれまで自分に害意を持つ者があれば、必ず察知することができた。ところが今日、花見をしている最中、(かす)かな害心を感じて振り返って見たが、誰もおらぬ。不思議な事があるものだ」と答えた。

このやり取りを(かたわ)らで聞いていた小竪が、「お許しください。ほんの一瞬、私が()(よう)()(らち)な(=不届きな)事を考えました」と手をついて謝った。但馬は「おお、そうか。それでわかった」と、喜んだという。

「至誠(が)(しん)に通ず」、そうなるには、社訓の精神を体得して完全に修めて行けばよいのである。純一になれば、何事も()らぬものはない。どうか諸君全員が社訓の精神を実現される事を望むものである。

日常不断の修養                

大正15年5月13日 於・工務主任会

『日常不断の修養』と申せば、工務の人などは疑問を持つであろう。「我々は日常不断に働いているのに、どうして日常不断の修養などできるのか」と。

事実は逆で、日常不断の仕事をしているからこそ、日常不断の修養をしなければならないのである。工務は当工場の中で至要なる働きをしている。しかし仕事にばかり(とら)われてしまうと、糸の事しか見えなくなる。研究改善するにも、他の人格を無視して、工女を機械の一部のように見てしまう。それではいけない。

仕事は自分という人間がするのである。ではその自分自身がどうなっているのか。工務主任としての人格・識見・力量は如何(いか)に、原料科との関係は如何に、衛生科との連絡は如何に。仕事は全て自分の力量・識見・学問・人格が根本になる。

(そう)司馬(しば)(おん)(こう)(=司馬(こう)。北宋の政治家・学者)は人格・識見・手腕・力量ともに備わった賢人で、西郷南洲(なんしゅう)(隆盛)も深く景仰(けいこう)(=慕い仰ぐ事。「高山は仰がん、景行は行かん」に由来)して、「司馬温公は『閨中(けいちゅう)(=夫婦の寝室)にて語りし(げん)も、人に対して言うべからざる事なし』と申されたり」(南洲遺訓)と、自らの(こころ)()()きに書き()めているほどで、私学校(=西郷が故郷鹿児島に立てた私塾)の生徒たちにもよく教えたという。その温公の、もう一つの名言に、

(かね)を積んで(もっ)て子孫に(のこ)す、子孫必ずしもこれを守らず。書を積んで以て子孫に遺す、子孫必ずしもこれを読まず。()かず(=及ばない)、陰徳(いんとく)冥々(めいめい)(うち)に積んで(=人知れず善徳を積んで)、以て子孫(の)長久(ちょうきゅう)(けい)(=末長く栄えるための備え)を()さんには」(家訓)

とある。また、

「君子は才を(さしはさ)みて(=頼りにして)以て善を()し、小人は才を挟みて以て悪を為す」(()治通(じつ)(がん)

とも言っている。

善悪のみならず、大小に関しても同じ事で、「君子は才を挟みて以て大を為し、小人は才を挟みて以て小を為す」という事でもある。工務の諸君は学校(=高校・大学)出の人も多いが、職務遂行の出来・不出来は、(学歴・才智よりも)人格修行ができているか(いな)かによる方が大きい。まず自分を修め、部下を感化し、それによって良い仕事ができるようになるのである。

(にの)(みや)(そん)(とく)(=江戸末期の農業改革者。徹底した実践主義で殖産を説いた)は、(こう)()()(=荒れ果てた土地)を開墾(かいこん)して財政を立て直す事に尽力したのであるが、「国家最大の損失は、人の心の(でん)()の荒廃、次いで山林の荒廃である」と戒めている。すなわち田畑の荒廃の原因は、人心の荒廃であるとして、人みな誠の心を養うべき事を説いた。今日の労働争議も心の荒蕪から来ている。労働能率の上がらないのもそうである。

悪い方の例を史上に探せば、(とう)(かん)(しん)(きゅう)()(りょう)(=有力宦官(かんがん))がいる。彼は一代の権力を(ろう)した(=もて遊んだ)者であるが、死に臨んで遺言して曰く、「人君には(いとま)なきようにせよ、常に(おご)らせ、酒に(ふけ)らせ、色に(おぼ)れさせよ」、「人君には書物を読ませるべからず、徳ある者を近づけるべからず。世の興廃盛衰の真の()われ(=原因・理由)を教えてはならぬ」と。悪人ながら政治理論は明晰である。

以上は序論であって、ここから本論に入る。

  • 誠実と信仰

誠実とは、偽りなき、()じり()なき、清い心で(もっ)て神を信ずる事である。信仰の土台が誠でないと信仰が不純になり、また土台が小さいと途中で止まってしまう。神に(やまい)がない如く健全に、神の愛の如く純粋に、神の如く完全に修めて行くのである。

信仰のない人は、識見も智慧も小さい。ソクラテースは、

「人は知ること多ければ(=多くを知れば)、知らざることも益々(ますます)多し」

と言った。我々は引力のお陰でこうして地球上に住んでいるが、太陽系には地球以外にも、木星・火星・金星・天王政・海王星などたくさんある。()かる太陽系の外には、なお大いなる宇宙が無数に存在する。()れば人智など(まこと)に小さいものである。ゆえにあの大西郷の言った如く、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、(おのれ)を尽して人を(とが)めず、()が誠の足らざるを(たず)ぬ(=追求する)べし」(遺訓)、気宇(きう)(=心の大きさ)を大にして、誠実と信仰を間断なく修めて行く事、これが根底である。

  • 自己を尊重し、他者を敬愛す

 ここに言う《自己》とは《(ほん)()(=()()(とら)われぬ本来の自分)》の事である。世人は本我の尊い事を知らず、小さな私我に執着する。私我は名利・煩悩(ぼんのう)(ざい)()の根源である。 

孔子が、

 「(いにしえ)の学者は己の(ため)(=自分の知徳を磨くため)に(学問を)し、今の学者は人の為(=世の名利・権勢を得るため)にす」(論語・憲問)

と言ったのはこの意味である。

諸君ら主任たる者が部下の()(げん)を取り、迷信の者には迷信を、欲得の者には利欲をちらつかせて釣るなどしては、およそ他者を敬愛するの道とは言えない。真に人を愛するなら、その人の非を非とし、悪を悪とし、親切に教え導いて正道に戻してやらねばならぬ。それでこそ基督の言われた、

「人に()られんと(おも)ふ事は、汝もまた人にその如く爲よ」(マタイ7-12明治訳)

との教えに(かな)い、また孔子の言った、

「己の欲せざる所、(これ)を人に(ほどこ)すこと(なか)れ」(論語・顔淵/衛霊公)

との教訓を実践する事になる。

ここから、団体生活についての実際問題を考えてみたい。団体生活には団体道徳というものがある。それは西洋では発達しているが、わが国ではまだ(とな)えられ始めたばかりで、()(ごく)(=至って)幼稚な段階である。ゆえに自分の仕事のみ重んじて、他人の仕事は軽く見るなど、非常に(ひと)()がりで未熟な所がある。その考え方は部・課にも及び、研究科・教育科・衛生課などは、何かというと軽視される。

団体には団体に必要な部署がある。パウロはそれを各人の適正に(たと)えて、

(たまもの)(こと)なれども(れい)は同じ、(つとめ)は殊なれども主は同じ。また行爲(はたらき)は殊なれども、一切の事を(すべて)人中(ひとなか)に行ふ神は同じ。靈の(あらはれ)を各人に(たまは)りしは、(えき)を得さしめん(ため)なり。或は靈によりて智慧の(ことば)を賜り、或は同じ靈によりて信仰を賜り、或は同じ靈によりて病を(いや)(ちから)を賜り、或は異能(ちからあるわざ)(おこな)ひ、或は預言し、或は靈を(わきま)え、或は方言を言い、或は方言を(やく)する能を賜れり。()れども(すべ)てこれらのことを行ふ者は同じ一靈なり。彼(は)その心のままに各人(おのおの)()(あた)ふるなり」(コリント前12-4~11)

と言った。会社の中にも、己の人格を尊重する事を知って、(かえ)って人を軽く見る向きがある。ゆえにパウロは続けて言う、

(からだ)は一つにして多くの(えだ)あり、一體(ひとつからだ)(すべ)ての肢は多けれど、一の體なり。(・・・・)神はその劣れる所に、(こと)(たふ)(とき)を加えて體を調和(ととの)へたまへり。(・・・・)尓曹(なんぢら)はキリストの體にしてまた各々その肢なり」(同-12~27)

団体の中で各人は、尊重し合い、助け合って生きて行かねばならぬ。仮りに成績が上がったとしても、人を尊重せず、同情と理解とを持たないならば、(かえ)って会社の将来に大きな禍を(もたら)す事になる。その罪はその功に十倍・百倍するであろう。そもそも自分と神との関係を考えてみれば、自分ばかりが偉いなどと思う心の(あさ)はかさがわかろうと言うものである。自分の専門のみに小さく固まって考えるようでは、愛に欠けるのである。

「不法の増すによりて多くの人の愛(が)、(ひやや)かにならん」(マタイ24-12)

これは、愛が冷やかになって不法が蔓延(はびこ)る事を、逆に言われたものである。

他より見て、郡是(グンゼ)は温かいという評があるが、仕事の効率のためにその美風を壊してはいけない。私が十八歳の頃、郷里で読んだ書物に、

(せみ)(うかが)う(=狙う)(とう)(ろう)(=カマキリ)あり、蟷螂を窺う黄雀(こうじゃく)(=雀)あり、黄雀を撃たんとする弾丸(たま)あり」(蘇代)

とあった。(この()(だい)()(しん)[=中国戦国時代の雄弁家。諸国を遊説して合従(がっしょう)策を成立させたとされる]の弟である。)他人の欠点ばかり(あげつら)っていると、その人自体の人格が低い事が(あらわ)れてしまう。もし欠点に気付いたなら、直接本人に、愛を(もっ)て穏やかに指摘すべきである。

山月先生文集(146)

山月子『女学雑誌』記事(二十) 

新著批評

俊傑少年 俊傑老年

この二書、スマイルズ氏(=19世紀英国の著述家。その『自助論』は『西国立志編』の邦題で広く読まれた)の著作より訳出するところ、『少年』・『老年』と別々にせしこと、訳者用心(=心配り)の深きを見る。一読すべきの良書なり。

明治25年3月26日 女学雑誌310号

誤解に対する心

〇問 他より誤解せられて「快と感ず」という人あり、「無感覚なり」という人あり、「(かな)しく思う」と言う人あり。いずれか進歩せし人なりや、()えて問う。(山口県 碧流生)

〇答 快と感ずるは恐らく奇(=一般と違うこと)を好む人ならん。世には、自らの人物をいろいろの方角(ほうかく)より、さまざまに評され、その中の誤評などを聞き、反って快然として、「我は大人物なり。俗流の知るところに(あら)ず」と思う人あり。中には評する人を(もく)して(=見做(みな)して)「小さき(やつ)なり」と心に(あざけ)り、(ごう)(ぜん)として(=(おご)(たか)ぶって)自ら大なりとする人もあり。無頓着に気にせぬ人あり。「我を知らず」と情けなく、(かな)しく思う人あり。誤解する者の心を(おも)うて、憐れに気の毒に思う人あり。その種類は種々にして、一々枚挙(まいきょ)すべからず。

 このいずれか最も進みたる人なるかを答えんよりも、むしろ進歩せると思う人の、誤解に対する心情の如何(いかん)をここに考えん(=考えてみよう)。(けだ)し(=確かに)進歩せる人は、誤解ごときに(心が)動かざる人にして、またよく(心が)動く人なり。動かざるところは、神についての確信なり。「人は知らずとも、父は我を知り給ふ」(ヨハネ10-15明治訳)との信念は、紛々(ふんぷん)たる(=様々に入り乱れるさま)誤評に対して微動もせざるべし。

一方、その動くところは人に対するの愛情なり。「我この世を何に(たと)へんや。童子(どうじ)、街に坐し、その(とも)を呼びて、『我ら笛吹けど(=真理の道を説いたが)爾曹(なんぢら)おどらず、(あい)をすれども(=道に入るよう哀訴したが)爾曹胸打たず(=感動しなかった)』と云うに似たり。(けだ)し(=まさにそれ(ゆえ))ヨハネ(が)(きた)りて(くら)ふこと(や)飲むことを()ざれば、『鬼に()かれたる者なり』と言い、人の子の(=キリストが)来りて(くら)ふことをし、飲むことをすれば、『食を(たしな)み酒を好む人、税吏(ぜいり)・罪ある者の友なり』と言う」(マタイ11-16~19明治訳)。

「高潔なる愛情は人には知られ(がた)し、是非(ぜひ)もなし(=仕方がない)」というが如き(は)、自己に対しての哀苦、ないしは諦観(ていかん)(=(あきら)めの気持)には(あら)ず、他(人)が人(=自分)を誤解する、その貧しき心の有様(ありさま)(おも)うて、()(=私)はその人の心の(ため)(かな)しみ苦しみ、その至らざる心をして、一層高く、清く、美しく、大ならしめんことを欲するものなり。

(しか)してその障害(=誤解)をなすものは、誤解より生ずる無形の牆壁(しょうへき)(=(へだ)て)なり。その牆壁を取り去らんと欲せば、その誤解を弁明せざるべからず。而して口頭の弁明は当人をして()じ入らしめ、もしくは一層誤解を増さしむ。(いわん)や世は広くして人(は)多し、(いずく)んぞ(=どうして)一々これを弁明するを得んや。(ゆえ)に誤解はそのままにし、無言にして誠を行なう。およそ誠の(こう)・誠の心は、弁明せずしてよく弁明す。誤解は早晩(=早かれ遅かれ)消滅すべし。

ただ(うれ)うる(=憂慮する)ところは、誠なきにあり。誠は神より()づ。即ち内に向かいて己の足らざるを嘆き、全てを棄てて神に従い、思うところ、言うところ、行なう所、みな神意に契合(けいごう)せんこと(=ぴったり合うこと)を求め、かつ他の魂の為に誠実に神に祈る。愛なる神・力ある神は必ず他を進ましめ、自らを進ましむ。この確信は愛情より出づる(あい)と苦とを消し去り、神の国を望んで永遠に進歩す。これ実に進歩せる人の、誤解に対する心なるべしと信ず。

明治25年3月26日 女学雑誌310号

(りゅう)(げん)(とく)

(註:劉備玄徳は『三国志』の中心人物。漢室再興の大義を奉じて(しょく)(おこ)すも、大志半ばにして病没)

 天地を(まつ)りて桃園に義を結び、赤手(せきしゅ)(ふる)いて(=空手(くうしゅ)・手ぶらで。兵力もなしに)涿(たく)(ぐん)に起こり、百千の(けい)(てき)(=強い敵)と戦い、万億の(かん)()(しの)ぎ、幾度か死地に(おちい)りて、幾度か生を得、三十余年間、世上を流浪(るろう)して至誠(たわ)まず、熱涙()れず、遂に漢室を再興す。その功(は)まことに大なり。

 彼が赤貧にして(ろう)桑村(そうそん)茅屋(ぼうおく)(=あばら家)に(むしろ)を織り、(くつ)()りて老母に孝を尽せし時の事を思わば、彼が(くらい)(=地位)なく、力なく、富なく、兵なく、(しか)して到る(ところ)、群雄に敬慕せられ、()(あい)せられ、果てはかの奸雄・曹操(そうそう)(=三国時代の覇者。()の始祖)をして、「天下の英雄はただ君と操(=曹操)のみ」と言わしむる(=言わせる)に至りし事を思い、また彼が如何(いか)(きゅう)し、如何に苦しむとも、麾下(きか)の英傑たちは決して離るることなく、反ってこれを慕い、多くの百姓が慈母を恋うるが(ごと)くにこれを仰ぎしことを思わば、誰かその人物―地位・富・力・兵権・才・智など、全ての付属物を(のぞ)ける正真の人物―の如何(いか)ばかり美しく、大なりしかを感ぜざらんや。

 人は称す、徐庶(じょしょ)(=初め劉備の軍師であったが、老母を人質に取られ、涙を飲んで敵側に移った)が曹操に仕えて、生涯、策を献ぜざりし(=曹操の為には軍略を立てなかった)は、凡人のよくなし得る所に(あら)ずと。また人は論ず、孔明(=劉備を支えた智将)の『出師(すいし)の表(=出兵を上奏する文書)』を読みて、涙せざる者は忠臣に非ずと。

 (しか)り、徐庶の志・孔明の忠は(まこと)に深く感ずべきものなり。されどもその志を尽さしめ、その忠を()さしめた劉備の愛に至りては、さらに深く感ずべきに(あら)ずや。

思うに彼は如何(いか)にしてその徳を養いたるか、如何にしてその人物を偉大・秀美ならしめたるか。(けだ)し(=恐らく)彼は天を敬うの心(が)(あつ)く、人を愛するの(じょう)(が)深かりしが(ゆえ)ならん。その義兵を起すの前、粛然(しゅくぜん)として(=(おごそ)かに(うやうや)しく)まず天を(まつ)る、何ぞ(=何と)その心の(うる)わしきや。(あたか)も篤信なる基督(キリスト)教徒が、事をなすに当りて、共に(こうべ)を垂れて祈祷するが如し。

漢室を愛し・農民を愛し、将士を愛し、これが為に幾度(いくたび)か熱涙を(そそ)ぎたる事績は、かのパウロが「三年間、夜も昼も絶えず涙を流して、各人を訓戒せし」(使徒20-31)という心に似て、吾人(ごじん)(=我々)が恍惚(こうこつ)と(=うっとりと)(たたず)み眺めて、大いに美とするところなり。

吾人は彼がただ天を(うやま)い、人を愛せしが(ゆえ)に至誠を養い、徳を建てたりとは言わず。その貧苦・困難・悲哀・危険の境遇に()いて、種々の障碍(しょうがい)・誘惑に打ち()ちて、よく天を敬い、人を愛し、道を踏み、義を行ないたるが故に、(しか)り(=そうである)と言うなり。

吾人は現今(げんこん)日本の光景を()所謂(いわゆる)改革家の挙動を観、基督教徒の状況を察するごとに、未だかつてこの千数百年前の人物(=劉備玄徳)を、(せつ)(おも)い起さずんば(あら)ざるなり。

「愛は徳を建つるものなり」(コリント前8-1明治訳)

「愛は(しゅう)(とく)(おび)(=種々の徳を纏めるもの)なり」(同コロサイ3-14)

明治25年4月2日 女学雑誌311号

武芸

()が祖父(=長州藩武芸指南役・大林(のぶ)(みち))の説なりとて、父上(=蘭方医・川合(はる)(つね))の語り給いし(ことば)に、

「武は無形なり。()つに撃たれず、斬るに斬られぬものなり。(・・・・)勇者はその手を刀に触れずして(=刀に手を掛けずに)、よく敵を服さしむ、云々(うんぬん)」とあり。

我は思う、かの血気粗暴の(やから)が他(=相手)を斬らんとて()き、他が(=相手の)自若(じじゃく)(=平然)として(どう)ぜざる風采(ふうさい)(=態度)に気を呑まれ、(たん)(=胆力・気力)を砕かれて、何も()すこと(あた)わざりしというが如きは、(けだ)し(=恐らく)他が「撃つに撃たれず、斬るに斬られず」という《武》と(いつ)なりし(=合一している)が(ゆえ)(あら)ずや。切言すれば(=端的に言えば)、()きたる《武》なるが故に非ずや。今、武を習う者(が)、もし《芸(=技術)》のみに(とど)まらば、何の効かあるべき(=何の効果があろうか)。

明治25年4月23日 女学雑誌314号

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