基督の心第三〇九集
山月御教話・続編(十五)
石田秀夫先生筆録
神人合一の境地(続き)
昭和十年六月九日 於 東京教会
「吾、十有五にして学に志し、三十にして立つ」(論語・為政)
この《学》は、今の人が学校で学ぶくらいの意味ではない。天道・人道を学び知ることである。それでも《而立》(=三十而立)まで十五年かかっている。すなわち十五年の修業を積んで道を修め、その道の上に立つことができるようになった。あれだけの人が十五年間、専心修業していったのである。
ルーテルはウォルムスの会議で、自らの信仰を糺された時、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできぬ。神よ、助けたまえ」と述べたとされる。これには当時の帝王も宗教家も、何も言うことができなかった。
孔子はさらに十年修行して《不惑》(=「四十而不惑」)となった。
偉い人ほど誘惑が強くなる。「高木は風に折らる」(古諺)である。スポルジョン(=19世紀英国のバプテスト派伝道師)は、「先生ほど偉くなれば、もはや悪魔の誘惑など無くなるのでしょうね」と問われたのに対して、「いやいや、私の所には悪魔の親分が来ますよ」と答えたという。私なども、若い時は早く悟りの境地に出たいと思ったが、こちらの心構えが未だできていないうちに、早々悟ったりすると、その後が危ない。早く進まないことが反って好かったのかも知れない。
孔子は《不惑》に達して、さらに十年修業して《知天命》(=「五十而知天命」)に至った。「汝が学び来ったところを以て、これより立って天下万民を救え」という天の命を聞いたのである。それでようやく、五十歳にして政治に携わった。因みに釈迦が衆生済度の自覚を得たのは三十五歳、基督は三十歳である。しかし孔子の善政も僅か五年しか続かず、後は不遇のままに終わった。
今の人は、「忙しくて教えを聞く暇がない、修行する時間が取れない」などと言う。伝記など見れば孔子の日常など実に多忙である。それで修業を中止したかと言えば、止めてなどいない。東奔西走、席の温まる暇もない中に修業を続け、ついに六十の時、《耳順》(=「六十而耳順」)に達した。人から何を言われても、そのまま受け取れる心境である。相手の精神状態が手に取るように見えるから、気の毒に思いこそすれ、腹の立てようもないのである。
パウロは、「靈に屬する者は、すべての事をわきまふ(=理解する)、而して己は人に辧へらるる事なし」(コリント前2-15)と言った。私の場合も、述べ十数万の人を教えて来たが、私の全てを《弁えている》人など、五人あるかないかである。けれども霊の上の事は、そう簡単にわかるはずもないと思うから、腹が立つこともない。
孔子は老境に入っても修業を止めなかった。普通なら隠居してもよい年頃に、なおも諸国を周流し、六十九歳の時、ようやく故郷に戻り、七十歳では、思う事・言う事・行なう事が、全て道に外れなくなった(=「不踰矩」)。心が天と一つになったのである。私は、神を知る事にかけては孔子以上であるが、実際の行ないは未だ孔子に及ばないと思っている。
パウロは孔子と同じように学んだ。
「唯この一事を務む」(ピリピ3-13)
《一事》と言っても広大・無辺の一事である。長さは過去・現在・未来にわたり、広さは宇宙一杯に亘っているのである。およそ宗教の祖師・開祖と言われるほどの人は、みなこの《一事》を悟得している。澄み切った綺麗な心で、後のものを忘れ、恩を施した事も、傷つけられた事も忘れて、「神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美(=神がキリストを通して天上へ導いて下さるという褒美)を得んとて之を追求む」(同-14)。
生きた神の力が自分の中に入って、上に引き上げてくださる。そうなれば、去年と今年、今月と来月とでは、自分が違って来る。
基督は神を父子の関係によって示された。旧約の神は天上に君臨する神、妬む神・怒る神であって、人間が直接その姿を眼にしようものなら、即刻死ぬかも知れない畏敬すべき神であった。それを基督は慈愛ある父親としてお示しくださった。父であるから、これを愛し親しみ、懐き甘えてよいのである。しかしそうかと言って、いつまでも親離れしないのは不自然である。「這えば立て、立てば歩めの親心」である。齢相応に育っていかねば、親は心を痛める。年々、着実に成長して、親の代りが勤められるようになることこそ、恩返しというものである。基督はご自分の名代となるべき十二人を選んでおられる。パウロも「標準(=目標)を指して」進んだ。この《標準》はすなわち《完全》のことである。完全の八方面に連なって、生きた関係を持つことである。
私もそうなりたいと思い、決死の覚悟で宮城野の原で端坐・瞑想した。その結果、「面帕なくして鏡に映る如く、主の榮光を見る」(コリント後3-18)の経験に入ったのである。仏教・儒教の人ならそこで止まってしまうのであろうが、こちらは完全を《標準》に掲げているから、一度の見神体験などほんの入口で、さらにどこまでも進む。それが「栄光から栄光に進む」ことである。
信と修は一体である。《小我》を取り去れば、神の霊が上から降って、邪魔なものを取り除いてくださる。基督の人格に同化されて小基督になるのである。パウロはそれを「産の苦痛をなす」(ガラテヤ4-19)と言った。
宗教と教育は一体である。まず自分がその経験をしない限り、人を導く事などできない。そうするには、悔改・信頼・信仰・実行・勤労の間に、いかなる苦しみがあろうとも、光を見つめて希望を失わない。「爲ん方つくれども希望を失はず」(コリント後4-8)、希望は信仰箇条(=お題目)ではない。
それから愛慕である。親を慕うようにしてついて行く。「愛するは似るの初めなり」(出典不詳)、俗には「似たもの夫婦」などと言う。十九世紀後半、英国の大宰相・ディズレリー(=保守党党首。2期6年間、首相を勤めた)は、「英雄たらんと欲するは、英雄たるべき階梯(=はしご)なり」と言った。その言葉どおり、ユダヤ出身という不利を乗り越えて首相となったのである。
ディズレリーや王陽明(=明代の大儒者。聖人たらんと立志して励んだ)より以上の完全の理想を懐けば、絶えず進んで、心が広く大きくなり、磐石の如き堅固な心境に入ると共に、心が柔和・謙遜になって、優美と剛直が一つに修まる。それを小学校程度の低い所に安んじて、停滞してしまってはならない。初等教育でも宗教でも、初めは易しい所から始めて、だんだんに育てていく。それが天地の親たる神の御心である。それがわかると、神が天地を美しく、聖くなさっていく過程がわかる。
人生は斯くの如きもので、個人・家庭・学校・企業・国家が天国になり、国と国が天国になるのが神の御心である。そうなるには一人一人が学修、進歩、向上、合一し、それによって、神がこの世を進化・聖化なさる働きと合流していくのである。この大精神をよくわかって、完全の信仰も日々着々進んでいくようになりたいものである。
郡是本宮工場ご教話
昭和十一年某月某日
かつて当工場(=在・福島県本宮市)が未完成の時に訪れ、(繭の)乾燥場を借りて講話したことがある。それで竣工の暁には、ぜひ再訪してお話をしたいと思い、工場長もそれを望んでおられたのであるが、諸般の事情で実現できず、今回、仙台の東北学院(=押川方義師創設の神学校)の創立五十周年記念式があり、それに出席するため、三月一日に家を発ち、京都・大阪・綾部・沼津・甲州・東京・仙台と回って、ようやくここへ来たのである。
郡是では諸君の健康・衛生に配慮して、いろいろ工夫しているので、まずそれについて考えてみたい。
(第一)健康・衛生
健康に留意しないのは、当人の不幸であるばかりか、広くは国家の損失でもある。明治維新の頃、皆がその死を惜しんだ人に山岡静山がある。天下無双の槍の遣い手で、精神が立派で、人柄は誠実、血のにじむような修業を重ねて、二十代にして既に日本一の名人になっていた。
然るに当時は健康知識が乏しく、主食は白米が上等と信じられていた。(当社の衛生顧問の)二木謙三博士(=日本伝染病学会初代会長。文化勲章受章者)は早くから玄米食を提唱されておられ、岩波(茂雄)氏(=岩波書店創業者)は二木氏の説を聞いて、従業員に玄米を食べさせて、(反発を買い)ストライキを招いたことがある。静山も白米を食べ続けて脚気を発症していた。
折しも、静山の師匠が反対派に疎まれて、隅田川における遠泳に誘い出されてしまった。静山はそこに奸計(=悪だくみ)あることを悟って、病身を押して身代わりに川に入り、たちまち心臓発作を起して死んでしまったのである。二十七歳の若さであった。
彼に妹が一人あり、山岡家を継がねばならぬこととなり、小野鉄太郎を婿に迎えた。これが後の山岡鉄舟で、西郷隆盛が明治天皇の教育係に抜擢した人である。この人は剣の名手であったが、大酒呑みでもあった。およそ豪傑というものは、「斗酒なお辞せず(=一斗[18㍑]の酒をも拒まぬ)」という風潮があって、斯く言う私なども、信仰のない時分には、とても信じて貰えないような暴飲をしたものである。
この鉄舟が水戸の酒豪と飲み較べをした時は、相手は五升で倒れたが、さらに二升呑んで、平然と帰って行ったという。食べる方も健啖(=大食)で、安倍川餅を百八個食べたとか、ゆで卵を九十七個食べたとかいう話が残っている。とうとう三十四、五歳の頃、胃に腫れ物ができ、胃癌と診断された。さすが精神が鍛えられているので、取り乱すこともなく、平然として生き続け、五十三歳で死んだ。生きていればまだまだ役立った人を、健康に留意しなかったばかりに、早々に失ったのである。
先ほど申した東北学院を建てたのが押川方義先生で、明治・大正・昭和を通じての大人物であった。日本中から先生を慕って英才が集まっていた。先生はお仕事の為にはご自分を顧みることがなく、「今のままではお倒れになります」という忠告を無視して働かれ、田中義一(=対中国強硬派の首相)と満州を買い取る算段をなさっておられる最中、昭和三年一月十日に亡くなられた。
そうであるから諸君も、精神の健康だけでなく、身体の健康にもよく気をつけて、せっかく与えられた命を大切にして、長く社会のために働いて貰いたい。そのためには、工場長・衛生係の言う事をよく聞いて、丈夫な心身を鍛えねばならない。
(第二)喜んで忠告を聞く
《忠告》の逆で、人の機嫌を取るだけの言葉を《諛言》という。精神上の修養を考えない人は、自分の気に入らぬ言葉は、たとえ善意から出ていても聞かないし、気に入る言葉なら、悪い事でも喜ぶものである。昔の偉い人は、自分に媚び諂うような者は退けた。毛利元就は、家来が媚びて、「殿は尭・舜(=共に古代中国の伝説的聖天子)にも勝る名君であります」と言うのを聞いて、「自分は未だ尭舜に遠く及ばぬ。彼らはこんな諂臣を持たなかった」と嘆いた。
英国王の家来が、「陛下のご威光は限りなく、今やお言葉どおりにならぬ事など御座いませぬ」と持ち上げた。王は黙ってその臣下を海岸に連れて行き、打ち寄せる荒波に向かって「波よ、鎮まれ」と命じて見せた。当然、波は収まらない。「朕(=君侯の自称)の意向など少しも通ぜぬわ」と言うと、大臣は本心を見抜かれて恥じ入った。
自分の《実際》が大事であって、信仰・修養を積んだ人なら、過分に褒められることを恥じ、至らぬ点を指摘されて喜ぶ。凡人は逆で、例えば顔にちょっと汚れが付いているのを教えられれば感謝するが、もっと重大な、心の汚れを諭されようものなら、たいてい逆恨みする。
山岡鉄舟は、ある事件に関して過激な意見書を認めた。お付きの者がそれを戒めて、「書いた物は後世まで残りますから、充分配慮してお書きになるべきです」と言った。鉄舟は「よくぞ言ってくれた。人がいろいろ言うので、つい感情に走ってしまった」と猛省し、改めて書き直したという。
蓮如上人(=浄土真宗中興の祖。石山本願寺開山)は、自分の言行を陰で悪口する者があると聞き、「人から言われぬと気付かないことがある。面と向かっては言い難かろうから、陰でなりとも言って貰えるなら有難い」と喜んだという。後世に名の残るような人格は、こうして成ったのである。
私は二十七歳で押川先生に就いたのであるが、学校の教育方針について、先生と考えの違う所があったので、敢えて意見を申し上げたところ、先生は黙ってお聞きになり、「そこまで学校の事を考えてくれて、有難いと思う」とおっしゃってくださった。
人の忠告を素直に聞くことは、自分の進歩に大変役立つことであるから、忠告してくれる人に出会ったら、大いに感謝して耳を傾けるよう心掛けたい。
(第三)正しい行ないをなす
中国三国時代に徐庶という人(=軍略の士)がいた。初め劉表(=荊州の長官。名門出の美丈夫であったが、優柔不断で天下を逃した)に仕えたが、間もなく辞して去った。先輩格の司馬徽(=人物評をよくした隠士。別名・水鏡先生)から、「どうして劉表を見限ったのか」と問われ、「劉表は善の善たるを知って之を行なわず、悪の悪たるを知って之を行なわざる能わず。およそ仕うるに足らず」と切って捨てた。
一つの敢行が一つの勇気を生む。戦争でも一度勝つと勢いがつく。私の友人で克己心の強い人がいた。最初はむしろ意志の弱い人間であったが、ある時、食事の事で悩み、三日三晩かかって初志を貫徹してみせた。それから次第に意志堅固になっていったという。
人格の涵養(=養い育てる事)が大切なのである。私は東京で大学生の教育をしているのであるが(=「学生修道院」を主宰)、就職の時には会社の重役が出て来て人物審査をする。息子の嫁を採るにも人物を見る。私の所では、誰が見ても尊敬できるような人間を育てる教育をしている。単に会社や工場に役立つ若者ではなく、人間として一生涯有意義に、自他ともに幸福に暮らせるような人物を育てたいと思っている。
(第四)礼儀作法
[この項、筆録なし]
(第五)信仰
眼には見えぬが、神という存在がこの天地一杯に在して、その御心は誠そのものである。天地は神の定めた法則のとおりに動いている。我が社の社訓はこの神の誠から来ているのであるから、自然そのものである。
泥棒でも人目のある所では盗みをしない。神を信ずる信仰があれば、表裏も陰日向もなくなり、むしろ人目のない所ほど行ないを慎むようになる。それが「誠を一貫する」ということである。社訓の最初に《信仰》を置いたのはそのためである。
私自身、そのとおりにしている。一言を発するにも、一事を行なうにも、天において神が悦び、地において人が喜ぶようにと心掛けている。
神の至誠は人にも感応する。今、こうして誠の話をしているこの堂内にも誠は満ちて、諸君の上に働いている。学問の有無、男女・長幼の別なく感応し、諸君にも、明治天皇にも、楠木正成にも、大西郷にも感応している。
この感応を受けると、いま話した(第一から第四までの)ことは自然にできる。そうなれば、たとえじっとしていても人の精神を高く、広く、潔くしていくことができる。諸君も皆そうなれるのである
教訓集第三巻より
純一の勤労・純一の修養
大正十五年五月二日 於・本社職員修養会
聖書朗読 マタイ伝第二十二章三十四節から四十節(略)
ただいま朗読した中の、「心を盡し、精神を盡し、意を盡し」とあるのが、純一・誠の精神である。社訓を制定して以来、誠という事については、たびたびお話して来たから、諸君はよくわかっているはずである。而してなかなかその効果が上がらなかったのであるが、漸く最近、各工場において少しずつ良くなって来たようで、先刻も専務から岡山の工場について報告を受けて、喜んでいる所である。
誠についての説明はもう済んでいるので、今日はこれに関する実際の例話を挙げて考えてみたい。
(第一)純一の勤労
学問研究に純一であったのはメランヒトン(=16世紀ドイツの人文学者。ルターの思想の体系化に尽力した)である。彼は多忙の中、執務の時間割を作り、毎日十四時間ずつ働いた。それでも来客などがあるので、予定通りには進まない。その遅れは必ずどこかで取り戻すようにし、決して等閑にはしなかった。私も修業の方では寸暇を惜しんで励んだ。道を歩く間も瞑想などして、人が空費する時間を有効利用した。メランヒトンもそうだったのである。
ミル(=19世紀英国の哲学者)は英国の東インド会社の雇員であった。イギリス人は勤務には厳しい。彼は貿易会社の激務の中で、あれだけの学問を積んだのである。しかも彼の学説は全て彼自身が考え出したものである。今の人は読書して本に呑まれてしまい、自ら考える事をしない。よって、「君自身の考えは如何に」と問われれば、沈黙するしかない。
ミルは道を歩く間も思索に耽っていたので、よく郵便箱(=郵便ポスト)や街灯の柱にぶつかった。ある時など荷馬車に突き当たって、相手が馬だとも気づかず、帽子を取って丁寧に詫びて笑われた。次には淑女と衝突し、また馬か思って、「こん畜生」と怒鳴ってしまい、大いに顰蹙を買ったと言う。
ムンゼン(=テオドール・モムゼンか?)はドイツの法学者で、文学の素養もあって、あのゲーテの詩などは大方、暗記していたという。当時は照明と言えばランプか蝋燭であった。その火に顔を近づけては細かい字を読んでいたので、彼の前頭部の髪は熱でいつも縮れていたそうである。
またその書斎は乱雑を極め、足の踏み場もないほどであった。ある日など、妻の留守中に託された己が幼児が、知らぬ間にどこかへ這って行ってしまわないよう、反古と一緒に紙屑籠に入れていたという。真理一筋に生きる学者というものは、子供のように純一なのである。
米国のルーズヴェルト(=第26代大統領セオドア・ルーズヴェルト)は金子堅太郎氏(=明治期の政治家。大日本帝国憲法の起草に参画。皇室典範などの諸法典を整備した)とは学友であった。その他にも多くの邦人の知り合いがあったが、それらの人達は、何ゆえルーズヴェルトの如く頭角を現す事なく終わってしまったのか。勤勉が足りなかったのである。
世界に威を誇るドイツのカイザー(=ドイツ皇帝の称号。特にウィルヘルム2世を指す)でさえ、このルーズヴェルトには一目置いていた。それくらい誠意の念の篤い人だったのである。その芽生えは少年期に遡る。ある日、知人の家を訪ねて、リンカーンの伝記を見付けるや、一心不乱に読み耽って時を忘れ、読み終えた時には、自分が今どこにいるのかも忘れていたという。この熱誠を以て職務に当り、一生聖書を手放さなかったので、近代稀に見る傑出した大統領となったのである。
ニュートン(=17世紀英国の物理学者。万有引力の発見他)の有名な逸話としては、懐中時計を鶏卵と間違えて茹でてしまった話が有名であるが、いま一つ、幻の昼食の話がある。
ある日、友人が訪ねて行くと、召使が出て来て、「主人はただ今、研究に没頭しておりまして、何を申しても耳に入りません。お昼には食堂に下りて来ると思いますので、どうかそちらでお待ちください」と言われた。しかし待てど暮らせど、一向に出て来ない。眼の前にはすでに昼食が用意されており、いかにも食欲をそそるので、友人はつい摘まみ食いを始めて、とうとうあらかた食べてしまった。
それでも出て来ないので、諦めて帰ってしまった。ようやくその頃になって、ニュートンも空腹を覚えて食堂に姿を見せた。ところが食卓を見ると、食事はすでに終わった形跡である。「ほほう、自分はいつの間にか食事を済ませて、無意識に部屋へ戻ったらしい」と、独り納得して、そのまま引き上げたという。文字通り寝食を忘れていたのである。
(第二)純一の修養
エドモンド・キーン(=19世紀初頭、一世を風靡したシェークスピア俳優)は英国切っての名優で、さしずめ日本の(市川)団十郎の如き名声を誇っていた。特に悪人に扮しての演技に入神の妙を見せた。役者を天職と考え、一心に役作りに励んだのである。あのバイロン卿(=19世紀、英国ロマン派の詩人)でさえ、その迫真の演技に打たれて気絶した事があるという。
サルバーク(=19世紀イタリアのバリトン歌手サルバトーレ・マルケージか?)は声楽の妙手で、ある人がその神技の所以を問うと、「聴衆の前で歌うには、最低五百回の練習を繰り返します」と答えたという。
山東京伝は曲亭馬琴(=共に江戸後期の戯作者)の先輩格であるが、毎回、創作する前には非常に苦悶して考えた。良い案が浮かべば夜中でも飛び起きて執筆した。また書き掛けの一節を大声で口ずさみながら、家の周りを歩き廻って、近所から苦情が出た事もある。尾籠な(=不浄な)話であるが、厠に立つ(=便所へ行く)間も惜しんで、部屋に御虎子(=簡易便器)を置いていたとも言う。
宗祇(=室町末期の連歌師)は連歌俳諧において名高い人である。ある時、旅先で日が暮れ、泊まる宿も見当たらぬので、村外れの無住の荒れ寺に入り込んだ。真夜中頃、何やら話し声がするので、そっと襖の隙間から覗いて見ると、僧形の者が額を集めて話し込んでいる。思わず耳を欹てると、
「・・・・今宵の月は空にこそあり」
と繰り返しては嘆息しているようである。「必定(=きっと)これは、当寺の先代が詠んだ句の前句付けができず、代々の住職が呻吟し続けて、夜な夜な亡霊となって出て来ているに違いない。気の毒な事よ」と宗祇は思い、
「宿るべき水も氷に閉じられて、今宵の月は空にこそあり」(=人々の心は氷で閉ざされて、真如の月も空しく宙に漂う)と付けてやった[=編註:当時は水に写る月を愛でるのが月見であった]。すると亡霊たちは大いに喜んで、雲散霧消して二度と出て来なかったという。
もう一例は、北山の大徳寺の門を建てた無名の棟梁(=大工頭)の話である。その門は、寺から求められた寸法どうりに造ったのでは、どうしても間尺に合わず、高さが一尺ばかり低いのである。悶々と悩んだが勝手な変更は認められず、言いつけどおりに落成させた。世人はみな褒め称えたが、自身はどうにも満足が行かぬ。ある日、大工と思しき二人の男が通りかかって、「これはどう見ても、間口に比べて丈が詰まっている感じがする。他は良くできているのに、惜しい事だ」と言うのを耳にして、「やはりそうか」と落胆し、以来食欲も失せて、とうとう病にかかって死んでしまったのである。
世間はこれを、「気の小さい男だ」と無下に(=非情に)評するかも知れぬが、昔の職人は斯くまで己の仕事に誇りを持っていたのである。今時の大工とは雲泥の差である。先般、愛知県の教育者の会で聞いた事であるが、某校の新築工事に非常な手抜きがなされて、早くも二階が落ちそうになっていると言う。見えない所はどうでもよいという、実に嘆かわしい風潮である。
柳生但馬(宗矩)(=江戸初期、柳生新陰流の達人)は長い修練の結果、背後から斬り掛かられても、その殺気を感じて躱せる境地に達した。そんな話は芝居や講談の絵空事と思うかも知れないが、真剣に修行を積んで行けば事実そうなるものである。
それは既に《道》に立っているのであって、道の修まった者には人の精神状態が手に取るようにわかる。但馬はある時、一小竪(=お供の童子)に刀を持たせて花見に出掛けた。のんびり花を見上げている主人の後姿を見て、小竪はふと思った、「今、後ろから斬り付けたら、斬れぬ事はあるまい」と。すると但馬は急に背後を振り返り、小首を傾げるや、そのまま来た道を取って返し、帰宅するや、縁側に端坐して沈思に耽り始めた。
家来が訝って、「どうなされましたか」と問うと、「儂はこれまで自分に害意を持つ者があれば、必ず察知することができた。ところが今日、花見をしている最中、微かな害心を感じて振り返って見たが、誰もおらぬ。不思議な事があるものだ」と答えた。
このやり取りを傍らで聞いていた小竪が、「お許しください。ほんの一瞬、私が左様な不埒な(=不届きな)事を考えました」と手をついて謝った。但馬は「おお、そうか。それでわかった」と、喜んだという。
「至誠(が)神に通ず」、そうなるには、社訓の精神を体得して完全に修めて行けばよいのである。純一になれば、何事も成らぬものはない。どうか諸君全員が社訓の精神を実現される事を望むものである。
日常不断の修養
大正15年5月13日 於・工務主任会
『日常不断の修養』と申せば、工務の人などは疑問を持つであろう。「我々は日常不断に働いているのに、どうして日常不断の修養などできるのか」と。
事実は逆で、日常不断の仕事をしているからこそ、日常不断の修養をしなければならないのである。工務は当工場の中で至要なる働きをしている。しかし仕事にばかり捉われてしまうと、糸の事しか見えなくなる。研究改善するにも、他の人格を無視して、工女を機械の一部のように見てしまう。それではいけない。
仕事は自分という人間がするのである。ではその自分自身がどうなっているのか。工務主任としての人格・識見・力量は如何に、原料科との関係は如何に、衛生科との連絡は如何に。仕事は全て自分の力量・識見・学問・人格が根本になる。
宋の司馬温公(=司馬光。北宋の政治家・学者)は人格・識見・手腕・力量ともに備わった賢人で、西郷南洲(隆盛)も深く景仰(=慕い仰ぐ事。「高山は仰がん、景行は行かん」に由来)して、「司馬温公は『閨中(=夫婦の寝室)にて語りし言も、人に対して言うべからざる事なし』と申されたり」(南洲遺訓)と、自らの心得書きに書き留めているほどで、私学校(=西郷が故郷鹿児島に立てた私塾)の生徒たちにもよく教えたという。その温公の、もう一つの名言に、
「金を積んで以て子孫に遺す、子孫必ずしもこれを守らず。書を積んで以て子孫に遺す、子孫必ずしもこれを読まず。如かず(=及ばない)、陰徳を冥々の中に積んで(=人知れず善徳を積んで)、以て子孫(の)長久の計(=末長く栄えるための備え)を為さんには」(家訓)
とある。また、
「君子は才を挟みて(=頼りにして)以て善を為し、小人は才を挟みて以て悪を為す」(資治通鑑)
とも言っている。
善悪のみならず、大小に関しても同じ事で、「君子は才を挟みて以て大を為し、小人は才を挟みて以て小を為す」という事でもある。工務の諸君は学校(=高校・大学)出の人も多いが、職務遂行の出来・不出来は、(学歴・才智よりも)人格修行ができているか否かによる方が大きい。まず自分を修め、部下を感化し、それによって良い仕事ができるようになるのである。
二宮尊徳(=江戸末期の農業改革者。徹底した実践主義で殖産を説いた)は、荒蕪地(=荒れ果てた土地)を開墾して財政を立て直す事に尽力したのであるが、「国家最大の損失は、人の心の田圃の荒廃、次いで山林の荒廃である」と戒めている。すなわち田畑の荒廃の原因は、人心の荒廃であるとして、人みな誠の心を養うべき事を説いた。今日の労働争議も心の荒蕪から来ている。労働能率の上がらないのもそうである。
悪い方の例を史上に探せば、唐の姦臣・仇士良(=有力宦官)がいる。彼は一代の権力を弄した(=もて遊んだ)者であるが、死に臨んで遺言して曰く、「人君には暇なきようにせよ、常に奢らせ、酒に耽らせ、色に溺れさせよ」、「人君には書物を読ませるべからず、徳ある者を近づけるべからず。世の興廃盛衰の真の謂われ(=原因・理由)を教えてはならぬ」と。悪人ながら政治理論は明晰である。
以上は序論であって、ここから本論に入る。
- 誠実と信仰
誠実とは、偽りなき、混じり気なき、清い心で以て神を信ずる事である。信仰の土台が誠でないと信仰が不純になり、また土台が小さいと途中で止まってしまう。神に病がない如く健全に、神の愛の如く純粋に、神の如く完全に修めて行くのである。
信仰のない人は、識見も智慧も小さい。ソクラテースは、
「人は知ること多ければ(=多くを知れば)、知らざることも益々多し」
と言った。我々は引力のお陰でこうして地球上に住んでいるが、太陽系には地球以外にも、木星・火星・金星・天王政・海王星などたくさんある。斯かる太陽系の外には、なお大いなる宇宙が無数に存在する。然れば人智など真に小さいものである。ゆえにあの大西郷の言った如く、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽して人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ(=追求する)べし」(遺訓)、気宇(=心の大きさ)を大にして、誠実と信仰を間断なく修めて行く事、これが根底である。
- 自己を尊重し、他者を敬愛す
ここに言う《自己》とは《本我(=私我に囚われぬ本来の自分)》の事である。世人は本我の尊い事を知らず、小さな私我に執着する。私我は名利・煩悩・罪禍の根源である。
孔子が、
「古の学者は己の為(=自分の知徳を磨くため)に(学問を)し、今の学者は人の為(=世の名利・権勢を得るため)にす」(論語・憲問)
と言ったのはこの意味である。
諸君ら主任たる者が部下の機嫌を取り、迷信の者には迷信を、欲得の者には利欲をちらつかせて釣るなどしては、およそ他者を敬愛するの道とは言えない。真に人を愛するなら、その人の非を非とし、悪を悪とし、親切に教え導いて正道に戻してやらねばならぬ。それでこそ基督の言われた、
「人に爲られんと欲ふ事は、汝もまた人にその如く爲よ」(マタイ7-12明治訳)
との教えに適い、また孔子の言った、
「己の欲せざる所、之を人に施すこと勿れ」(論語・顔淵/衛霊公)
との教訓を実践する事になる。
ここから、団体生活についての実際問題を考えてみたい。団体生活には団体道徳というものがある。それは西洋では発達しているが、わが国ではまだ唱えられ始めたばかりで、至極(=至って)幼稚な段階である。ゆえに自分の仕事のみ重んじて、他人の仕事は軽く見るなど、非常に独り善がりで未熟な所がある。その考え方は部・課にも及び、研究科・教育科・衛生課などは、何かというと軽視される。
団体には団体に必要な部署がある。パウロはそれを各人の適正に譬えて、
「賜は殊なれども靈は同じ、職は殊なれども主は同じ。また行爲は殊なれども、一切の事を衆の人中に行ふ神は同じ。靈の顯を各人に賜りしは、益を得さしめん爲なり。或は靈によりて智慧の言を賜り、或は同じ靈によりて信仰を賜り、或は同じ靈によりて病を醫す能を賜り、或は異能を行ひ、或は預言し、或は靈を辧え、或は方言を言い、或は方言を譯する能を賜れり。然れども凡てこれらのことを行ふ者は同じ一靈なり。彼(は)その心のままに各人に頒け與ふるなり」(コリント前12-4~11)
と言った。会社の中にも、己の人格を尊重する事を知って、反って人を軽く見る向きがある。ゆえにパウロは続けて言う、
「體は一つにして多くの肢あり、一體の凡ての肢は多けれど、一の體なり。(・・・・)神はその劣れる所に、殊に尊貴を加えて體を調和へたまへり。(・・・・)尓曹はキリストの體にしてまた各々その肢なり」(同-12~27)
団体の中で各人は、尊重し合い、助け合って生きて行かねばならぬ。仮りに成績が上がったとしても、人を尊重せず、同情と理解とを持たないならば、反って会社の将来に大きな禍を齎す事になる。その罪はその功に十倍・百倍するであろう。そもそも自分と神との関係を考えてみれば、自分ばかりが偉いなどと思う心の浅はかさがわかろうと言うものである。自分の専門のみに小さく固まって考えるようでは、愛に欠けるのである。
「不法の増すによりて多くの人の愛(が)、冷かにならん」(マタイ24-12)
これは、愛が冷やかになって不法が蔓延る事を、逆に言われたものである。
他より見て、郡是は温かいという評があるが、仕事の効率のためにその美風を壊してはいけない。私が十八歳の頃、郷里で読んだ書物に、
「蝉を窺う(=狙う)蟷螂(=カマキリ)あり、蟷螂を窺う黄雀(=雀)あり、黄雀を撃たんとする弾丸あり」(蘇代)
とあった。(この蘇代は蘇秦[=中国戦国時代の雄弁家。諸国を遊説して合従策を成立させたとされる]の弟である。)他人の欠点ばかり論っていると、その人自体の人格が低い事が露れてしまう。もし欠点に気付いたなら、直接本人に、愛を以て穏やかに指摘すべきである。
山月先生文集(146)
山月子『女学雑誌』記事(二十)
新著批評
俊傑少年 俊傑老年
この二書、スマイルズ氏(=19世紀英国の著述家。その『自助論』は『西国立志編』の邦題で広く読まれた)の著作より訳出するところ、『少年』・『老年』と別々にせしこと、訳者用心(=心配り)の深きを見る。一読すべきの良書なり。
明治25年3月26日 女学雑誌310号
誤解に対する心
〇問 他より誤解せられて「快と感ず」という人あり、「無感覚なり」という人あり、「哀しく思う」と言う人あり。いずれか進歩せし人なりや、敢えて問う。(山口県 碧流生)
〇答 快と感ずるは恐らく奇(=一般と違うこと)を好む人ならん。世には、自らの人物をいろいろの方角より、さまざまに評され、その中の誤評などを聞き、反って快然として、「我は大人物なり。俗流の知るところに非ず」と思う人あり。中には評する人を目して(=見做して)「小さき奴なり」と心に嘲り、傲然として(=傲り昂ぶって)自ら大なりとする人もあり。無頓着に気にせぬ人あり。「我を知らず」と情けなく、哀しく思う人あり。誤解する者の心を想うて、憐れに気の毒に思う人あり。その種類は種々にして、一々枚挙すべからず。
このいずれか最も進みたる人なるかを答えんよりも、むしろ進歩せると思う人の、誤解に対する心情の如何をここに考えん(=考えてみよう)。蓋し(=確かに)進歩せる人は、誤解ごときに(心が)動かざる人にして、またよく(心が)動く人なり。動かざるところは、神についての確信なり。「人は知らずとも、父は我を知り給ふ」(ヨハネ10-15明治訳)との信念は、紛々たる(=様々に入り乱れるさま)誤評に対して微動もせざるべし。
一方、その動くところは人に対するの愛情なり。「我この世を何に譬へんや。童子、街に坐し、その侶を呼びて、『我ら笛吹けど(=真理の道を説いたが)爾曹おどらず、哀をすれども(=道に入るよう哀訴したが)爾曹胸打たず(=感動しなかった)』と云うに似たり。蓋し(=まさにそれ故)ヨハネ(が)来りて食ふこと(や)飲むことを爲ざれば、『鬼に憑かれたる者なり』と言い、人の子の(=キリストが)来りて食ふことをし、飲むことをすれば、『食を嗜み酒を好む人、税吏・罪ある者の友なり』と言う」(マタイ11-16~19明治訳)。
「高潔なる愛情は人には知られ難し、是非もなし(=仕方がない)」というが如き(は)、自己に対しての哀苦、ないしは諦観(=諦めの気持)には非ず、他(人)が人(=自分)を誤解する、その貧しき心の有様を想うて、余(=私)はその人の心の為に哀しみ苦しみ、その至らざる心をして、一層高く、清く、美しく、大ならしめんことを欲するものなり。
而してその障害(=誤解)をなすものは、誤解より生ずる無形の牆壁(=隔て)なり。その牆壁を取り去らんと欲せば、その誤解を弁明せざるべからず。而して口頭の弁明は当人をして羞じ入らしめ、もしくは一層誤解を増さしむ。況や世は広くして人(は)多し、焉んぞ(=どうして)一々これを弁明するを得んや。故に誤解はそのままにし、無言にして誠を行なう。およそ誠の行・誠の心は、弁明せずしてよく弁明す。誤解は早晩(=早かれ遅かれ)消滅すべし。
ただ憂うる(=憂慮する)ところは、誠なきにあり。誠は神より出づ。即ち内に向かいて己の足らざるを嘆き、全てを棄てて神に従い、思うところ、言うところ、行なう所、みな神意に契合せんこと(=ぴったり合うこと)を求め、かつ他の魂の為に誠実に神に祈る。愛なる神・力ある神は必ず他を進ましめ、自らを進ましむ。この確信は愛情より出づる哀と苦とを消し去り、神の国を望んで永遠に進歩す。これ実に進歩せる人の、誤解に対する心なるべしと信ず。
明治25年3月26日 女学雑誌310号
劉玄徳
(註:劉備玄徳は『三国志』の中心人物。漢室再興の大義を奉じて蜀を興すも、大志半ばにして病没)
天地を祀りて桃園に義を結び、赤手を揮いて(=空手・手ぶらで。兵力もなしに)涿郡に起こり、百千の勁敵(=強い敵)と戦い、万億の艱苦を凌ぎ、幾度か死地に陥りて、幾度か生を得、三十余年間、世上を流浪して至誠撓まず、熱涙涸れず、遂に漢室を再興す。その功(は)まことに大なり。
彼が赤貧にして樓桑村の茅屋(=あばら家)に蓆を織り、履を販りて老母に孝を尽せし時の事を思わば、彼が位(=地位)なく、力なく、富なく、兵なく、而して到る処、群雄に敬慕せられ、畏愛せられ、果てはかの奸雄・曹操(=三国時代の覇者。魏の始祖)をして、「天下の英雄はただ君と操(=曹操)のみ」と言わしむる(=言わせる)に至りし事を思い、また彼が如何に窮し、如何に苦しむとも、麾下の英傑たちは決して離るることなく、反ってこれを慕い、多くの百姓が慈母を恋うるが如くにこれを仰ぎしことを思わば、誰かその人物―地位・富・力・兵権・才・智など、全ての付属物を除ける正真の人物―の如何ばかり美しく、大なりしかを感ぜざらんや。
人は称す、徐庶(=初め劉備の軍師であったが、老母を人質に取られ、涙を飲んで敵側に移った)が曹操に仕えて、生涯、策を献ぜざりし(=曹操の為には軍略を立てなかった)は、凡人のよくなし得る所に非ずと。また人は論ず、孔明(=劉備を支えた智将)の『出師の表(=出兵を上奏する文書)』を読みて、涙せざる者は忠臣に非ずと。
然り、徐庶の志・孔明の忠は真に深く感ずべきものなり。されどもその志を尽さしめ、その忠を成さしめた劉備の愛に至りては、さらに深く感ずべきに非ずや。
思うに彼は如何にしてその徳を養いたるか、如何にしてその人物を偉大・秀美ならしめたるか。蓋し(=恐らく)彼は天を敬うの心(が)篤く、人を愛するの情(が)深かりしが故ならん。その義兵を起すの前、粛然として(=厳かに恭しく)まず天を祀る、何ぞ(=何と)その心の美わしきや。恰も篤信なる基督教徒が、事をなすに当りて、共に頭を垂れて祈祷するが如し。
漢室を愛し・農民を愛し、将士を愛し、これが為に幾度か熱涙を潅ぎたる事績は、かのパウロが「三年間、夜も昼も絶えず涙を流して、各人を訓戒せし」(使徒20-31)という心に似て、吾人(=我々)が恍惚と(=うっとりと)佇み眺めて、大いに美とするところなり。
吾人は彼がただ天を敬い、人を愛せしが故に至誠を養い、徳を建てたりとは言わず。その貧苦・困難・悲哀・危険の境遇に於いて、種々の障碍・誘惑に打ち克ちて、よく天を敬い、人を愛し、道を踏み、義を行ないたるが故に、然り(=そうである)と言うなり。
吾人は現今日本の光景を観、所謂改革家の挙動を観、基督教徒の状況を察するごとに、未だかつてこの千数百年前の人物(=劉備玄徳)を、切に憶い起さずんば非ざるなり。
「愛は徳を建つるものなり」(コリント前8-1明治訳)
「愛は衆徳の帯(=種々の徳を纏めるもの)なり」(同コロサイ3-14)
明治25年4月2日 女学雑誌311号
武芸
吾が祖父(=長州藩武芸指南役・大林敷充)の説なりとて、父上(=蘭方医・川合立玄)の語り給いし言に、
「武は無形なり。撃つに撃たれず、斬るに斬られぬものなり。(・・・・)勇者はその手を刀に触れずして(=刀に手を掛けずに)、よく敵を服さしむ、云々」とあり。
我は思う、かの血気粗暴の輩が他(=相手)を斬らんとて赴き、他が(=相手の)自若(=平然)として動ぜざる風采(=態度)に気を呑まれ、胆(=胆力・気力)を砕かれて、何も成すこと能わざりしというが如きは、蓋し(=恐らく)他が「撃つに撃たれず、斬るに斬られず」という《武》と一なりし(=合一している)が故に非ずや。切言すれば(=端的に言えば)、活きたる《武》なるが故に非ずや。今、武を習う者(が)、もし《芸(=技術)》のみに留まらば、何の効かあるべき(=何の効果があろうか)。
明治25年4月23日 女学雑誌314号
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