大正十三年十一月十九日
於大阪毎日新聞社
世間では、義務を無視して権利を主張し、(労使の)調和を《無自覚》と謗り、分争を《自覚》と称する者がありますが、私どもはそんな考えに賛同することは出来ません。キリストは「凡て相争ふ国は亡び、相争ふ家は立つべからず」(ルカ11-17大正訳)と教え、釈迦は「蛇の頭尾の争い」という面白い譬話を以て教えました。
昔々、一匹の蛇がいて、その頭と尻尾のどちらが偉いか喧嘩になった。頭が言うには「俺には眼があってよく見え、耳があってよく聞こえ、口があってよく喰らい、常に前に立って進むのだから、俺が偉いに決まっている」と言った。すると尻尾は、「俺がお前を歩ませてやっているから、お前は行きたい所へ行けるのだ。もし俺が動かなかったら、たちまちお前なぞ餓え渇いて死んでしまうぞ」、そう言って傍らの木に三回り巻き付いて、三日経っても動かない。頭はすっかり困り果て、「わかった、わかった、もう勘弁してくれろ」と謝った。尻尾は「それ見たことか」と得意になって、好き勝手に歩き出したが、たちまち火の燃える穴に陥って、頭も尻尾も丸焼けになってしまったのである。
釈迦ほどの智者が、子供でもわかる話でもって戒めた事を、今時の大人が、あれこれ舶来(=輸入もの)の理屈をつけては相争い、西洋人の真似をしては「目覚めた・自覚した」などと嘯く(=偉そうに言う)のは、甚だ滑稽なことであります。
事業というものは、カーネギー(=19世紀アメリカの鉄鋼王)の申したとおり、「資本と労働と経営の才」、この三者が相協力して初めて成り立つものであります。事業機関を組織している上下各部は、必ず一致していなければならないものであります。
(第四)完全なる勤労
終りに「完全なる勤労」ということをお話し申し上げたいと思います。これがわかれば、明日からでも実行出来ます。私どもの会社では、この理想を以て働き、ある程度まで実行で来ているのであります。
(一)忠実
『戊申詔書(=日露戦争後の人心の浮華を戒めた明治天皇の詔勅)』に、「忠実(を以て)業(務)に服す」と仰せられてありますが、善い仕事をするには、陰日向なく忠実に努めることが第一であります。それには、前に述べた信仰というものが土台になっていなければ難しいのです。しかしながら、信仰のない人でも、良心のない人はいません。ですから、常に天とか神とか仏というものの前に自分があるものと信じて忠実に働くか、あるいは自分の良心に照らして疚しくないよう務めるか、いずれにしても忠実に勤労することです。これは説明を要しません。
(二)秩序
先刻、ちょっとこの工場の一部を参観させていただきましたが、非常によく秩序が立っており、大層感心致しました。仕事が秩序立っているか否かで、大変効率が違うものであります。フランスの有名な博物学者ビュフォン―この人は五十年かかって『博物誌』という大著を完成させた人であります―が、多年の実体験から言い残した言葉に、「秩序なき天才は、実にその才能の四分の三を無駄に失う」とあります。
天才ですらそうなのですから、いわんや凡夫凡婦(=平凡な男女)が何の考えもなしに、先にすべき事を後に回し、後でも可い事を先にしたり、重い事を軽く扱い、軽い事を重く扱うような事をしたら、個人としても団体としても、どれだけ損失であるかわかりません。きちんと秩序立てる事は実に大切であります。
(三)敏活
善を行なうには敏活でなければなりません。今日の人々は、修養とか信仰の問題を抜きにして事業が成り立つと思っていますが、実際に当ってみると、決してそういうものではありません。
孔子は釈迦、キリスト、ソクラテースと並んで、世界の四大聖人と呼ばれていますが、この人はただ道徳を説いたばかりではなく、自分の理想を政治の上に実現して、支那(=中国)の社会を救いたいという考えを持っていたのであります。ゆえにその言い遺された言葉は、政治家として参考にすべき事が多いばかりでなく、事業家として参考にすべき事がたくさんあります。
例えば子張(=孔子高弟)が《仁》を問うたのに答えて曰く、「よく五つのものを天下に行なうを仁となす」(論語・陽貨)と言い、その中の一つに《敏》を挙げ、「敏なれば則ち功あり」と申されました。敏活であれば成功するという意味であります。
日本史上、敏活によって大業を遂げた第一人者は、諸君もご承知の豊臣秀吉であります。私は今朝、綾部を発ち、京都を回ってこちらへ参りました。汽車が山崎の駅に差し掛かった時、紅葉交じりの天王山を見て、秀吉と光秀の合戦を思い起こしたのであります。
秀吉が木下藤吉郎と呼ばれて、織田信長に仕えた時は十八歳、以来三十年間の秀吉の生涯を見ますと、実に忠実であって、秩序正しく敏活で、気難しい主君の下で段々に出世していった。何事も忠実に努めました。草履取り(=主君の履物係)をしている時は、天下第一の草履取りを心掛け、身分が上がれば上がったで、その地位・その任務における第一人者を目指しました。
天正十年、命を受けて毛利征伐に出ていた時は、四十七歳でありました。その六月二日早朝、京都本能寺において、信長が光秀の為に殺されました。当時は今と違って通信手段が発達しておりません。何事も人が走って報知したのであります。飛脚が秀吉の陣に着いたのは、翌三日の夜半でした。夜が明けるや、急遽、毛利と和睦し、五日には総退陣です。万一の毛利の追撃にも備えながら退却し、八日には姫路城に入り、湯(=風呂)に浸かりながら方々に号令し、九日、行軍再開、十一日に尼崎に達し、十三日に山崎の合戦に臨んで、光秀を破りました。この間わずかに十日、十日間で天下の形勢をひっくり返したのであります。
とかく凡人は、時間というものを無駄に使ったり、碌でもない事に費やすことが多い。我々は秀吉の例を見倣って、自分に与えられた時間を、善い事のため、正しい事のために、無駄なく、敏活に使っていかねばなりません。それは一個人に留まらず、一団体悉くそういう心構えが必要であります。それを考えるか考えないかで、行く行く大変な相違が生じて来るものであります。
(四)研究
先刻、この工場内を見学しまして、能率の上がるように非常によく研究されていることに感銘を受けました。かの二宮尊徳は『報徳教』というものを説き、勤労・倹約・分度(=己の分限を弁えた生活)・推譲(=分限外の収入を将来のため、また他人のために積み立てること)を唱えましたが、ただ今の事業は、研究というものを抜きにしたら成り立ちません。
私は今は健康を損じたため、ここ三年ばかり巡回視察を休んでおりますが、それまでは毎夏、日本中の模範工場を回って見学しました。その中で、好成績を上げている工場は、みなよく工夫・研究しております。中には「以前は千五百人を要した作業が、八百人で出来るようになった」と喜んでいる会社もあった。これがもし研究もせずに、相も変わらず千五百人使っているようでは、いかに至誠・勤勉を心掛けても、経済競争には太刀打ちできません。