山月御教話・続編(十三) 学生修道院第二学期始業式御教話

基督心宗教団発行 基督の心第三〇七集より
学生修道院第二学期始業式御教話

石田秀夫先生筆録
昭和十年九月某日

新学期始業式に当って、五項目の事を簡単に話してみたい。

(第一)身体の健康

 「汝らは神の(みや)なり」(コリント前3-16)

 「人(が)もし神の(みや)(こぼ)たば、神(は)かれ(=その当人)を毀ち給はん」(同-17)一

 「みづから(を)(そこな)ふな」(使徒16-28)

 (おのれ)の身体は、もとより己一人の所有物ではない。神の宿り給う神聖な宮である。単なる運動器官ではなく、もっと精神的なものである。この考えがないと健康問題は徹底しない。特に体の基本が作られる青年時代には、よく考えねばならぬ。ここ(=学生修道院)に入った人は、玄米食にとまどうであろうが、この道の第一人者・二木謙三(ふたきけんぞう)博士(=日本伝染病学会初代会長。文化勲章受章者)の指導を受けているので、安心して実行されるとよい。博士には近々お願いして、講話をして(いただ)こうと思っている。

 昔はこういう科学的な健康法の考えが無かったため、可惜(あたら)(=惜しくも)短命で終わってしまった人が多い。今日はその(うち)、二人ほどを例に挙げておきたい。こういう人がもう少しでも長生きしてくれたら、どれだけ日本のためになったか知れない。

その一人は山岡静山(せいざん)という人である(=高橋(でい)(しゅう)の実兄。後述の山岡(てっ)(しゅう)の義兄)。幕府の旗本で、槍の名手、早くも二十代で日本第一の名人と(うた)われていた。凡人には真似できないような苦労を積み、毎日三千回もの稽古を欠かさなかったという。唯一、九州の方の名人(=(なん)()()(すけ))と試合をして、勝負がつかなかったが、それ以外には敵する者がなかった。

およそ武芸は(わざ)の勝負だと思われがちであるが、静山は技を極めた後、真の勝負はむしろ徳(=精神力・胆力)にあると考え、「人に勝たんとすれば()ず徳を修めねばならぬ。こちらの徳が修まれば、相手は自然に屈服する。それが真の戦いであって、技で勝つ事は真の勝利ではない。最も慎むべきは(おご)りである。傲慢(ごうまん)の心が一たび生ずれば、百芸(も)みな(すた)る」と考えた。私も昔の事を考えると、冷汗(ひやあせ)の出る思いである。

その静山が脚気(かっけ)(かか)った。脚気は白米による中毒(=ビタミン不足)だとされる。けれども昔の事であるから、それがわからない。

そうこうするうち、騒動が起こった。彼の師匠の反対派に善くない連中がいて、(すみ)()(がわ)での競泳を申し入れて来た。武術では(かな)わぬから、水中に誘って謀殺しようという魂胆(こんたん)(=策略)である。それを聞いた静山は、師匠の恩義を思って駆け付けたが、水に入るや、たちまち心臓麻痺(まひ)を起し、二十七歳で死んでしまった。もしこんな人物が五十歳、六十歳まで生きていたら、武道界は言うに及ばず、日本社会にどんな薫風(くんぷう)(=善い影響)をもたらしていたか知れない。

いま一人は山岡(てっ)(しゅう)(=幕末の幕臣。勝海舟を(たす)けて江戸無血開城に奔走。剣・禅・書に優れる)である。この人は本名・小野鉄太郎といったが、やはり静山の人物に敬服して、二十歳の時に槍の師匠として師事したのである。ところが静山の妹に、十七歳の(ふさ)()という人があり、懇望(こんもう)されて師匠の山岡家を()ぐ事になった(=静山の実弟・(でい)(しゅう)は既に高橋家に養子に出ていた)。

鉄舟はもともと天下無双の酒豪として通っており、水戸の方の豪傑と飲み比べをした時は、相手は五升飲んで倒れてしまったが、鉄舟は七升飲んでもなお、しっかりした足取りで帰って行ったという。後に西郷隆盛が明治天皇の養育係として選んだだけあって、ただの豪傑とは違うところがあったのであろう。しかし、安倍川(あべかわ)(もち)を百八個食べたとか、()(たまご)を九十七個食べたとかいう伝説も残っている。そんな無茶をした結果、三十四、五歳の時、わき腹に(かたまり)ができて、千葉(ちば)立造(りゅうぞう)(=鉄舟の侍医)が診察したところ、胃癌であるとわかった。それからは写経などしながら、病気に(とら)われず平然と過ごしたという。

「お医者さん、胃癌(いかん)胃癌(いかん)と申せども、()(かん)(なか)にも善きところあり」

などと(うた)っていたが、遂に五十三歳で死んだ。辞世の句は

(はら)()って苦しき中に(あけ)(がらす)

二人とも国家的に惜しい人物であったのに、医学的知識が不充分だったため、あたら(=惜しい事に)早すぎる死を遂げてしまった。

()く言う私も、仙台時代は毎晩五時頃から、町はずれ(=宮城野原)の練兵場に出掛けて行き、夜中の一時、二時まで端坐し、冬は鳥打帽(とりうちぼう)の上から風呂敷(ふろしき)三枚を(かぶ)り、(あか)毛布(ゲット)(くる)まって瞑想した。若かったので風邪(かぜ)も引かなかったが、後年、呼吸器に支障を来たす事が多くなった。当時、高等部にいた土居(つちい)という人は、雪の上に毛布を敷いて座禅をし、肺炎に(かか)って死んでしまった。いくら熱心でも、命を縮めるような修業は(ため)にならぬ。むろん暴飲暴食など、もっての他である。

(第二)忠言(ちゅうげん)

 人の忠言(=忠告)は感謝して聞かねばならぬ。二

 「忠言を聞けば(すなわ)ち拝し(=頭を下げて感謝する)、(あやま)ち有るを告げらるれば即ち喜ぶ。聖賢に(あら)ずんば(あた)わず」(李邦献)

 凡夫(ぼんぷ)(=凡庸な人間)はなかなかそうはいかず、すぐ腹を立てたり、悔しがったりして、せっかくの忠言を役立てる事ができない。

先ほどの鉄舟などは、人が世辞を言うと、むしろ不機嫌になって、黙ってその人の顔を見返していたと言う。千葉立造(りつぞう)は精神上、鉄舟の弟子を自認していたので、日頃から師に直言して()まなかった。ある時など、軸物(じくもの)の箱書きを頼まれた鉄舟が、酒を飲んで書いているうち、一字書き間違えてしまった。すると千葉は、「字を間違えるほど飲んではなりませぬ。そもそも酒は胃に良くないではありませんか」と叱り、その(むね)を箱の裏に書き付けて、それを谷中(やなか)(=東京台東区)の全生(ぜんしょう)(あん)(=鉄舟建立(こんりゅう)になる寺。その禅弟子・三遊亭円朝遺愛の幽霊画50幅を所蔵する事でも有名)に納めたが、後、火事のため焼失したという。

また、鉄舟がある事件に関して過激な意見書を(したた)めたのを見て、「一たん書いた文書(もんじょ)後々(のちのち)まで残るものでありますから、感情に走って書くべきものではありませぬ」と言うと、鉄舟はじっと千葉の顔を見て、「よくぞ言ってくれた。貴公(きこう)は本当に神様か、仏様か」と言い、改めて書き直したという。先ほどの李邦献の言葉(=「苦言を喜ぶ、云々(うんぬん)」)程度の境地には入っていた事がわかる。

先ほどの静山は《(おごり)》を戒めた。傲慢の心があると、人に(かつ)がれて足をすくわれる。(ゆえ)に忠言は喜んで聞くようにしなければならぬ。

私が今回会った婦人の中に、相当に弁の立つ人があったが、その人が言うには、「自分を叱ってくれる人は有難い。不親切な人は、相手に()く思われたいがため、なかなか直言してくれませぬ。忠言は親切心がないと言えないもので、その親切から出たせっかくの言葉を聞けぬようでは、進歩などないものです」と。

私も真の人を造りたいから叱りもする。学生の百人や二百人に、悪く言われようと善く言われようと問題ではない。今までに二万人の人を教えて来たが、善い事を言い切る人は滅多(めった)にいないものである。

(第三)正義と良心

「聖靈をけがす者は、永遠(とこしへ)(ゆる)されず、永遠の罪に定めらるべし」(マルコ3-29)

聖霊は良心の上に(くらい)して、良心に命令するものであるから、良心に(そむ)く人は聖霊に叛く事になる。良心の満足は正義を実行する事にあり、善い事をすれば良心が喜ぶ。

ところが日常、この良心が鈍っている事が多い。普段(ふだん)はそれでも誤魔化(ごまか)せるが、いよいよ死ぬ(きわ)ともなれば、良心が非常に(とが)められる事になる。

米国のある人が、子供の頃、人の畑の西瓜(すいか)を盗んで食った。大した金額でもないので、そのまま忘れていたが、後年、ふとした事から大病に(かか)り、病床に()いてから急にその事が思い出され、良心が痛んで仕方がない。思い余って、苦しい息の下で()(じょう)(したた)め、家の者に頼んで為替(かわせ)(=現金化できる証書)を同封して送ってもらい、それで少し(やす)んじて他界したという。

良心が満足して死ぬのが天国であり、良心に咎められて死ぬのが地獄である。ゆえに日々正義を愛し、聖霊を喜ばしめるように生きる事が大切である。かの孟子(もうし)も、正しい行ないを積んで四十年、ようやく《天地正大の気(=浩然(こうぜん)の気)》(孟子・公孫丑上)に立つ事を得たのである。

(第四)寛恕(かんじょ)徳望(とくぼう)

 「生涯守り行なうべき一語というものがありましょうか」と()(こう)(=孔子(こうし)の高弟)が問うたのに対して、孔子は「それ(は)(じょ)(=人を思い()る心)か。己の欲せざるところは、人に(ほどこ)すこと(なか)れ」と答えた(論語・衛霊公)。自分が(いや)な事は人にもしない。そういう人に徳望(=徳による人望)は自然について来る。ところが凡人はそうでない。悪口を言われて喜ぶ人などいない(はず)なのに、平気で人の悪口を言うのである。

 私が仙台にいた頃、「東北三大人物」なるものがあった。押川(ほう)()(=東北学院創設者)、南天(なんてん)(ぼう)(=松島(ずい)巌寺(がんじ)住職)、乃木(のぎ)希典(まれすけ)(=当時は仙台第2師団の若き師団長)である。

押川先生については、()多野鶴(たのつる)(きち)(おう)(=(グン)()創業者)などが、「先生の前に出ると、自分まで大きく拡張されるような気がする」と言っていた。この押川先生が《英雄》とすれば、南天棒は《豪傑》くらいである。

私は南天棒の所にもよく行ったが、コセコセするのが嫌いな、広々とした愉快な人であった。ある時、師団の大隊長(=児玉源(こだまげん)太郎(たろう))が教えを()いに来ると、「お前は隊長さんだそうだが、一つここで隊を指揮して見せろ」と言った。躊躇(ちゅうちょ)していると、やおらその人をねじ伏せ、馬乗りになって尻を叩き、「大隊、進め!」と言った。大隊長はすっかり恐れ入って、直ちに弟子入りしたという。酒などは(すり)(はち)()いで飲み()すという酒豪で、私も一緒に飲んだ事がある。物外(もつがい)和尚(おしょう)(=幕末の曹洞僧。拳骨(げんこつ)和尚で知られる)の事を話したら、「あれは(ちから)(ぜん)じゃ」と言い、釈宗(しゃくそう)(えん)(=鎌倉円覚寺(えんがくじ)・建長寺管長(かんちょう))については、「才子(さいし)(ぜん)じゃ」と切り捨てた。若い私は、そんな和尚に()かれて、つい自分もいっぱしの豪傑になったような気持になり掛かった。

宗教で悟って、わざと人を罵倒(ばとう)したりする事を《機鋒(きほう)(=刀の切っ先(きっさき)・言葉の鋭さ)》と言うが、それを戒めた言葉がある。

「機を(ろう)すること(なか)れ、機を弄すれば徳を(そん)ず」(出典不詳)と。

たとえ自分がどんなに明快に悟ったとしても、一方で人の悪口など言わないのが徳というものである。

南天棒は九州(久留米)の梅林寺で猛烈に修行して悟った。六年間というもの、横になって寝た事がなく、眠くなると手の甲を棒で打って眠気を払った。それで武道家のように手に胼胝(たこ)ができていたという。それだけ修練した人でありながら、徳を欠いたので、ついに妙心寺派の管長にはなれなかった。いくら力があっても、徳望が無ければ人は集まらない。ましてや、力もないのに人を悪く言うようでは話にならない。

(第五)敬虔(けいけん)厳粛(げんしゅく)

(みずか)ら敬虔を修業せよ」(テモテ前4-7)とパウロも言っている。

今や秋、秋の気候は人の精神を敬虔厳粛にさせる。どうか諸君もこの精神を修めて、前述の四項目を実行・統一するよう努められたい。

ヒマラヤの高峰であれ、地球全体であれ、それを統一しておられるのは神である。その神の前には、孔子も基督も敬虔の精神でもって、「天に(いま)す神」と(たた)えておられる。それくらい厳粛な存在なのである。

人は宇宙を呑むような精神になって、初めて世界的な人物になれる。それには、ただ人と比べて得意になったり、(ねた)んだりしているようではいけない。日夜、神と生きた交通ができるようにならねばならぬ。それには生きた信仰を持つ事が不可欠なのである。

学生修道院夕食後のご教話
昭和十年五月二十一日

 多くの人が安逸(あんいつ)を求めるが、安逸は求めて得られるものではない。そもそも学生時代から安逸など求めていると、勉学が大儀(たいぎ)(=めんどう)になる。むしろこの時代にこそ刻苦精励すべきであって、後に偉くなったような人はみな、若き日に艱難(かんなん)辛苦(しんく)(いと)わず求め続けた人である。

 支那(しな)(=中国)の名僧に()(みょう)という人があって、「西河(さいが)獅子(しし)」と言われた。酷寒の時期に皆が修業を休むのを後目(しりめ)に、朝夕務めを怠らず、眠気を催すと(きり)で自らを突き刺したという。白隠はこれを『禅関(ぜんかん)(さく)(しん)(=禅僧の苦行伝)』で読み、非常に感動して修業に励んだ。その結果、「五百年(かん)(しゅつ)宗匠(そうしょう)(=500年に1人出るか出ないかの大師匠)」と(うた)われるまでになったのである。

 古人はそのようにして励んだ。それを「都会に出て来たからには都会風にならねば」などと考え、やれ日曜には活動写真(=映画)を見に行くの、やれ親に貰った金でカフェに通うなどしていたのでは、その行く末は目に見えている。仏教の方で《顚倒(てんとう)(けん)》という言葉がある。足に()くべき靴を頭に(いただ)くような見当違いを言う。ナポレオンは(はな)の都パリに出て来て、学友から故郷コルシカ(なま)りを笑われたが、そういう連中は相手にせず、もっぱら『プルターク英雄伝(=プルタルコス編の古代英雄列伝)』を読んで修行した。それが後年、世界五大英雄の一人を作る素地(そじ)(=土台)となったのである。

教訓集第一巻より
新入社員講習会訓辞
大正十五年四月十日

 まずこの会社の精神と教育法は、世間の学校のそれとは異なっている事を承知されたい。()(じん)は近来、学校教育に欠陥を感じて、体験とか実践とかいう事を言い出した。すなわち知識を理解しただけでは役立たず、理解したものを体得・実行する事を要するのである。これからお話しする事も、頭ではわかり切った事であるが、いざ実行するとなると、なかなか容易ではないのである。しかもただ諸君が会社にいる間だけではなく、終生踏み行なって行くべき事柄なのである。

 およそ道の修行というものは、名僧と言われた人でさえ、二十年、三十年、四十年と骨折ったものである。その代わり、そうやって得たものは、たとえ天下が(こぞ)って反対してもびくともしないのである。頑固で動かないのではない、確信して()るがないのである。この精神が当社を動かしている。それはいくら頭で考えてもわからず、悟って初めて至り得る境地なのである。

(一)誠実

 誠実が根本である。当社で毎月(まいげつ)(まつ)に精勤賞として出している()(ぬぐい)に、「至誠(=誠実の極み)は万事の(もとい)なり」と染めてあるが、これは十八年前、前社長の求めによって私が書いたものである。人格を練るにも、学問するにも、研究するにも、天地一杯に充満したこの誠の精神を(もっ)て当たるのである。

 どこまでも真理を探究して()まぬ誠実の精神は、西洋では学問する人の心に働いており、東洋では宗教家の心に働いている。日本人は西洋の学問を取り入れるに熱心であるが、その根本たる誠の精神を()っていない。ゆえに表面的な借り物に終わってしまう。当社はこの誠を会社の根本生命としているのである。

生命であるから、理解してそれで()しというものではない。誠は一生懸命の働きの先に見えて来るものである。(いにしえ)(こう)()が親の病気を治したいと、寒中に(みず)()()するあの誠心である。    

釈迦は摩伽陀(まかだ)国の(じょう)(ぼん)(おう)の王子であり、三昧(ざんまい)殿(でん)という美麗なる宮殿に住み、(きさき)は才色兼備の耶輸陀(やしゅだ)()、二人の間には一子・羅睺(らご)()まであって、人生の富貴(ふうき)歓楽(かんらく)を一身に集めていたのであるが、それら全ての愛着を(ほう)(てき)(=投げ捨てる)して、「我もし正覚(しょうかく)を遂げずんば、誓ってこの座を立たず」との精神で(もっ)て修業に入った。ソクラテース、マホメットもまたそういう精神で立った。

この誠心があれば、二心なく純一になれる。それを「妻子が可愛いから」とか、「男一匹、()てる力を試してみよう」などと、よそ見ばかりしているから純一になれない。諸君はこの会社にいるのであれば、会社を信じ、社訓を守って他を思うべきでない。今も今で、この講義に一心・純一にならねばならぬ。私も今は心中に諸君あるのみ、神も国家も天も地もない。(しか)してまた神の事を思う時には、神の他に一切何もないのである。

(しか)らば誠とは何か。それは「古今に通じて(あや)まらず、中外に施して(もと)らず(=間違いがない)」(教育勅語)と仰せられた永久不滅の道である。諸君は他日(=将来)、当社の幹部となって働く人たちである。その時、この誠を体現していなければ、決して人は服さない。まさに「十目(じゅうもく)()る所、十手(じっしゅ)(ゆびさ)す所、それ(げん)(=厳格)なるかな」(大学)である。これは私の十八年間の教育の結論でもある。

誠でさえあれば、たとえ愚鈍に見えても、結局は信ぜられる。孔子は(そう)(しん)を、「(しん)()なり(=曾参は愚かで(にぶ)い)」(論語・先進)と評したが、他ならぬその曾参が孔子の道を継承したのである(=『大学』を講述し、『孝経』を編集し、その学問を子思(しし)[=孔子の孫、『中庸』他の編者]に伝えたとされる)。

()()(べん)(そう)(=世知に()けて小賢(こざかし)しい事。「仏道八難」の一)は悟道の妨げとされる。()()(たか)(よし)は、「才子は才を(たの)み、愚は愚を守る。少年の才子は愚に()かず(=才ある者は才に頼り、愚者は愚直に徹する。若き日は才子たるより愚直なるがよい)」(偶成)

と言った。土を見て土と知るのは才智である。土を見て井戸を掘ろうと思い立つのが立志である。しかし孔子の水脈、釈迦の(かっ)(せん)は共に深い。ゆえに堅い覚悟を以て、実践躬行(きゅうこう)(=実際に自ら行なう)しなければ達しない。

(二)謙遜

謙遜も実践するとなるとなかなか難しい。謙遜の極みは虚心・無我である。すなわち我を無にし、心を(くう)にするのである。

外部から(グン)()へ入って来た人は、どうしても自分の過去の経験の物差しで測るから、なかなかわからない。法律を修めた人は法に縛られ、学問を積んだ人は学問に(とら)われ、修業した人は修業に(なず)む(=拘泥(こうでい)する)。いかなる学問があろうと、いかなる知識があろうと、一切捨てて掛からねば入れない。

古人は謙遜の徳を積む事に非常に苦心した。(ちょう)(りょう)(=劉邦(りゅうほう)(たす)けて前漢を創始した功臣)は「容貌は婦人の如し」と太史(たいし)(こう)(=『史記』を著わした()()(せん))が記しているが、若い頃はなかなか気性の激しい人であった。(しん)()(こう)(てい)を暗殺しようと、力士を雇って、百二十(きん)(=30kg)の鉄槌(てっつい)を皇帝の馬車めがけて投げ付けさせたが、護衛の車に当って失敗に終わった。

それから(いのち)辛々(からがら)下邳(かひ)まで逃げ()び、()(じょう)(=石橋の上)で黄石(こうせき)(こう)という不思議な老人に出会った。老人は()いていた(くつ)をわざと水に落として、「拾って来い」と命じる。「(なに)(さま)の積りか」と腹を立てたが、何しろ追われている身でもあり、ここで事を荒立ててはまずいと思って言われたとおりにすると、「(じゅ)()(=若造(わかぞう)ながら)(おし)うべし。五日後、また此処(ここ)に来い」と言う。言われた日に行くと、老人が待っていて、「年長者を待たせるとは礼儀を知らぬ(やつ)だ」と叱りつけ、「五日後にまた来い」と言う。今度は夜明けを待って行くと、すでに老人は来ていて、「駄目だ、もっと早く来い」と言う。「ならば」と、前日の夜から待ち続けて(ようや)く老人に会えた。そして『太公望(たいこうぼう)兵書』というものを手渡され、「これをよく学べば、帝王の軍師ともなれようぞ」と言われた。

猛勉強した張良は劉邦(りゅうほう)に見出だされ、その結果、かつて武力で倒せなかった(しん)を、智略でもって滅ぼす事に成功し、前漢四百年の大いなる(もとい)扶植(ふしょく)(=助け立てる)するに到った。

こうして(こう)()り名を()げた後は、「山の麓で黄色い石を見つけたら、それを(わし)じゃと思え」と言い残して去った老人(=前述の黄石公)の遺言を守って、穏やかな晩年を(まっと)うしたという。血気盛んであった若者が、謙遜を学んだ結果である。

(三)感恩

人天(じんてん)の恩を感じないような人は、そもそも心が美しくない。およそ天地の恩を感じないようでは、人として失格である。大気、光熱、風水、みな天の恵みである。また周囲からも日々、有形無形の恩恵を(こうむ)っている。親の恩、師の恩、家族の恩、上司・部下の恩等々(などなど)、みなそうである。()(りき)だけで世が渡れると思ったら、(はなは)だ浅薄である。社会の根本改革も感恩の心から起こる。労働問題・思想問題もこれで自然解決する。

大事業も感恩の心より()る。(ほう)(ねん)(=浄土宗開祖)、親鸞(しんらん)(=浄土真宗開祖)、ルーテル(=新教(プロテスタント)開祖)の改革もみな、神の恩を謝する(あつ)い心から生まれた。日本国家の恩恵も、内地にいたのでは気づかないが、支那(しな)(=中国)など治安の乱れた国へ行くと、故国の実力というものが実感される。個人が護身する以上に、母国が守ってくれているのである。それを自分の力だと思い上がってはならない。それは会社という組織に身を置く者にもよくわかるであろう。若い人でも世間で(あなど)られないのは、後ろに(グン)()が控えているからである。

(四)公義

基督(キリスト)は「まづ神の國とその(ただ)しき(=公義)を求めよ。()らば(これ)()のもの(=衣食住)は皆なんぢらに加へらるべし」(マタイ6-33明治訳)と言われた。私の四十年間の経験から言っても、全くそのとおりである。出処(しゅっしょ)進退(=就任・退任など身の処し方)みな公義に()らねばならない。公義に(はず)れて、名利などが入るとたちまち醜態(しゅうたい)(さら)す事になる。

ロシアから金品を貰って(せっ)()思想(=社会主義・共産主義)を喧伝(けんでん)し、アメリカから裏金(うらがね)を得て共和思想を吹聴(ふいちょう)するなど(もっ)ての(ほか)である。そういう者は自分の信奉する国に籍を移せばよい。私利私欲のために公義を忘れ、自分の国を売るなど断じて許さるべきでない。

同じくまた、この会社に入ったからには、この会社の精神に従うのが当然である。どうしても気に()わないなら、(すみ)やかに去るべきである。私など、明日の米が無い時でも、地位に恋々(れんれん)たる事は一度もなかった。(かゆ)を薄めて(しの)いだ日々もあるが、それでも()(ぎょう)天地に()ずる所はなかった。

入社する際にはいろいろ誓い、懇願までして入って来て、入ってからあれこれ不平を言うのは卑怯(ひきょう)である。私は十四歳の時、絵入り『三国志』を読んで(かん)()の人となりに打たれた。かの近藤(こんどう)(いさみ)もこれを読んで泣いたという。近藤は関羽の公義の心によって、荒くれどもを統率して行ったのである。

その関羽が(ばく)(じょう)に囲まれて、敵方から降伏を勧告された時、

「我はもと(かい)(りょう)武夫(ぶふ)漢中(かんちゅう)(おう)(=劉備玄徳)と(ちかい)を結んで、恩を受くること身に余れり。あに義に(そむ)いて敵に(くだ)らんや。城もし破れば、(こころよ)く討死せん。(・・・・)玉は砕けてもその白きを改めず、竹は()けてもその(ふし)(そこな)わず、人は死しても名を失わず」

と返答した。我々もこの精神さえ持てば、世を隔てて(=時空を超えて)関羽と(いつ)になる。出処進退、(なん)逡巡(しゅんじゅん)(=ためらい)あらんや。

(五)勤労

 禅家の方で、「五百年(かん)(しゅつ)(=五百年に一人の逸材)」と(うた)われた(はら)白隠(はくいん)(=江戸中期

の臨済僧。原は旧東海道宿場町の一つ)が、四十年の修行によって得た《(きん)》の意義は、

 「天下の英雄、古今の豪傑(は)、みなこの一字より出頭(しゅっとう)(=頭角(とうかく)を現す)し来たる」

というものであった。

《凡人》とは読んで字の如く《人並みの人間》である。そこから(ざん)(ぜん)と(=一段高く)他に抜きん出るのが偉人である。世に凡人は多く、偉人は少ない。《勤》の一字を勉めないからである。

「君子はその(くらい)()して行ない、その(ほか)を願わず(=君子は己の置かれた境遇に応じて身を処し、それ以外を望まない)。(ふう)()に素しては富貴に行ない、貧賤(ひんせん)に素しては貧賤に行ない、()(てき)に素しては夷狄に行ない(=未開の地にあれば未開の人らしく振舞い)、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざることなし(=君子たる者、いかなる境遇に置かれようと、必ず自ら充足するものである)」(中庸)

君子は貧賤・不自由・患難に直面しても乱れる事がない。

現今、「上流階級が働かないなら、無産階級もまた働かぬ」などと言い出すのは愚の骨頂で、せっかく与えられた勤労の尊さを知らぬ者の言う事である。今の国情は、ちょうど貧乏人の夫婦喧嘩のようなものである。そんな事に(うつつ)を抜かしている場合ではないのであるが、それを許しているのもまた指導者の罪である。

私は日本を救いたい。勤労の精神で(もっ)て人々の人格を高め、民度を高め、国家を高め、世界を救いたいのである。武力ではない。完全の理想に向かって、誠を土台にして進めば、いつか世界は善くなる。遠大な事業であるが、その基礎は身近な教育である。

(六)完全の理想

完全の理想に向かって不断に進む事。それは言うは(やす)く、行なうは(かた)い。私は三十八年間修行して、その二十年目にこの会社に来た。この会社は「良き地」の畑(マタイ13-8)であるから、良き種が育つ事と思う。これを世界に広めて、世界を教化すれば、この世に天国が実現する。それには郡是の人が手本となって進まねばならぬ。どうか諸君は世界を変える使命を負っているつもりで、よく体得・実行されん事を望む。

山月先生文集(144)
山月子『女学雑誌』記事(十八)

      

(みょう)(=絶妙)なるかな、基督(キリスト)の愛、(それは)我らが(=我らの)(けが)れを洗うて雪の如く清からしめ、花の如く(かお)らしむ。我、時として人に(そし)られ(=悪口され)、人に(あやま)たる(=誤解される)。困難と悲哀と痛苦、(つぶさ)にこれを()む(=経験する)。されど我、何ぞ基督の愛を離るるを得ん。何ぞ基督の愛を(もっ)て人を愛せざるを得ん。

富により、智により、義によりて、何事をも()()べしと考えし頃の我(は)、(まこと)に及ばざりけり。人を教え、人を救い、人を助けんと思いし頃の我(は)、《彼我(ひが)(=自他)》の思いの抜けずして、実に至らざりけり。愛よ、汝は我に人生の秘義を悟らしめたり。ああ神は(すなわ)ち愛なり。我に愛ある時は、即ち神が我に(いま)す時なり。我(が)、愛もて働く時は、即ち神が我に()りて働き給う時なり。自ら働かずして神が働く時、何ぞ自ら義なりなどと思わん(=どうして自分を正義の人間などと考えるだろうか)。なんぞ自ら教うる・救う・助くるなどと考えん。やむを得ずしてこれを言行に発せしのみ。義と思わずして義、忠と思わずして忠、孝と思わずして孝、信と思わずして信、全ての善事は愛の結ぶところの(じつ)(=果実・成果)なること、ああ我は(まこと)にこれを知る。

悠々(ゆうゆう)として(ひと)(こうべ)()ぐれば、喜悦の微笑(は)(おもて)(=顔)に(あふ)る。讃美すべきかな基督の愛、(しか)してこれを我に知らしめし人こそ、(まこと)に感謝すべきなれ。我は永遠に、未来までも、その人の徳(=厚意)を忘れざるべし。

ヨハネ曰く「(いま)だ神を見し者なし、我等もし互いに(あい)(あい)せば、神、我等の(うち)に居たまいて、彼を愛する愛を我等の衷に完全(まっとう)す」(ヨハネ1書4-12明治訳)と。ソロモン(=イスラエル第3代の王、旧約『雅歌』他の作者とされた)(うと)うて(いわ)く、「愛は大水(おほみづ)も消すこと(あた)はず、洪水も(おぼ)らすこと能はず。人その家の一切(すべて)の物をことごとく(あた)へて愛に(かへ)ん(=愛を買い取ろう)とするも、(なほ)いやしめらるべし(=軽笑されるだけだろう)」(雅歌8-7)と。

愛は生命なり、永久(いつまで)()つることなし。我(は)、愛に(つら)なれば、(すなわ)ち限りなき生命を得たるなり、永久も堕つることなきなり。紛々(ふんぷん)たる(=乱れて入り混じった)俗世の毀誉(きよ)(は)、何ぞ我に(あず)からん(=関係あろうか)。()よ、地上の大雨(が)盆を傾けるが如く、雷鳴(とどろ)き、電光(ひらめ)く時(も)、芙蓉(ふよう)山巓(さんてん)(=富士の山頂)は凞々(きき)として(=穏やかに)日光(が)輝くなり。                 (明治25年2月25日 女学生第21号)

桜窓(おうそう)雑感

 (いん)(=導入の文)

 昨夜、()(えん)ぜし庭前(ていぜん)(=明治女学校では文武両道を尊び、星野天知などは武道も教えていた。彼は後に柳生(やぎゅう)心眼流(しんがんりゅう)第八世を襲名)は掃除全く(おわ)りて、桜花(おうか)(は)旭日(きょくじつ)(=朝日)に笑う。(しょ)(そう)(より)花に対して(=書斎の窓から花を眺めて)恍乎(こうこ)自失する(=うっとりして我を忘れる)こと(しばら)し。(きょ)(ぜん)として(=にわかに)自覚し来たれば、情は新たに、感は湧くが如く、筆を(おろ)せば、下篇(かへん)(=以下の文章が)(すなわ)()る。

(一)(みだ)りに批評すること(なか)

 我が家は富士の北麓(ほくろく)にあり。()()峠山(とうげやま)倉見山(くらみやま)は家の表裏に(そび)ゆ。幼時、これを見て思うに、倉見山(が)最も高く、三ッ峠(が)これに次ぎ、富士山は次の次なりと。(なん)ぞ知らん(=どうして知ろうか)、富士こそこれ日本第一の高山、三ッ峠は郡内(ぐんない)(=山梨県東部、桂川流域、南・北都留(つる)郡の古称)屈指の高嶺(たかね)(=1785㍍)にして、倉見山は地誌にも()せられざる低山(=1256㍍)なりしこと。

 燕雀(えんじゃく)(=(つばめ)(すずめ))が鴻鵠(こうこく)(=(おおとり)(くぐい))の志を知り得ざる(=「燕雀、(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」[史記])は、まさに真なり。童子(どうじ)大人(たいじん)の心を知る(よし)もなし。思えば我等もまた、(みだ)りに(=思慮もなく)人を評すべからず。「人を議すること(なか)れ」(マタイ8-1明治訳)との基督(キリスト)の戒めは、千載(せんざい)(=長い年月)を()るも益々(ますます)新たに、益々真なるを感ず。世にも憐れむべきは、自ら小なることを悟らずして、妄りに人を評定(ひょうじょう)し去る人なり。我はこれらの人の(ため)に、(憐憫の)熱涙(ねつるい)膝を湿(しめ)すを知らざるなり(=気付かぬほどである)。

(二)弁解

他人を愛し、自分を信ずる人は、他人の為に自分を弁解せんと思うことあり。何となれば、他人が自分を誤解するは、他人にとりて不幸・不利なる事を知ればなり。されど記憶せよ、沈黙こそ最も雄弁な弁解なることを。汝(が)、他(人)を愛し他を憐れまば、他の魂の為に、誠実に神に祈れ。神は(みずか)らよりも他を愛する者にあらずや。我等の願い、もし善ならば、如何(いか)で(=どうして)神に()かれざることあらん。

(三)改革家を改革すべし

現今、不適任の自称改革家多し。我等は一層深く養い、高く任じて(=自任して)、世の所謂(いわゆる)改革家を改革せざるべからず(=しなければならない)。

(四)当今の人士

当今の人士(じんし)(=地位・教養のある人の)、多くは余裕なし、薀蓄(うんちく)(=知識・学識の蓄え)なし。一見すればその人の腹中、見え()くが(ごと)し。交わること久しうして、美点・長所の次第に(あら)わるるが如き人物は幾人やある。「見渡せば花も紅葉(もみじ)もなかりけり」(藤原定家)、突進の士卒(しそつ)(=兵卒)はあれども、(たん)(だい)(かん)(こう)・仁愛の大将なし。古歌に曰く、

「人多き人の中にも人ぞなき。人となれ(=人士たれ)人、人となせ(=人士を育てよ)人」(空海)。

(十)(五)(けん)(いん)

(ちん)(しょう)呉広(ごこう)(=共に兵を挙げて(しん)朝滅亡の端を開いた人物)が出た時、天下は項羽(こうう)(=秦を滅ぼし、()王となった覇者(はしゃ))の()で来ることを知らず、まして高祖(こうそ)(=項羽を垓下(がいか)に破って天下を統一、漢王朝を建てた劉邦(りゅうほう))の存在など知る(よし)もなし。

小人はただ眼前に(あらわ)れた現実のみを見、達観(たっかん)の士は、(いま)だ隠れたる(ところ)にその眼光を(そそ)ぐ。

(六)宋襄(そうじょう)(じん)

姑息(こそく)(=その場しのぎ)の愛・(へん)(しょう)の義は、路傍の乞食を憐れんで銭を恵むことあり。(しか)して艱難の中、貧苦の家、悲哀の(きょう)(=境遇)、義人烈女、愛国憂世(ゆうせい)の志を()ぶるに(よし)なく(=大志を伸ばしてやる手立ては持たず)、風前月下(=居心地よい時節の美しい光景。ここは風前灯下[=風前の灯火の如く危うい境遇]の誤記か?)に暗涙を飲む(=人知れず涙ぐむ)者あれども、(いま)だかつてこれに対して同情を表し、この(ため)一掬(いっきく)(=一滴)の涙を(そそ)ぐ者あるを聞かず。

(さん)(たん)す(=繰り返し嘆く)、現今の宗教信者(にして)、宋襄(そうじょう)(じん)(=宋の襄公は「楚の布陣が整う前に撃つべし」との進言を、「仁に反する」と退け、反って楚に敗れ去った故事から、《無益の情け・()(ちが)いな憐れみ》を言う)に似たるもの多きことを。

(七)哀苦と偉人

我等が種々の悲哀と苦痛を(こうむ)るは、(一)には、よく至誠を養い、(二)には、世間多くの苦しみ悲しむ人々に同情を表し、よくこれを慰め、これを導くことを得んが為、我等の心にまずその経験を与え給う神の摂理(せつり)(=神慮)なり。幾多の人の経験を一身に持つは、即ちその人の偉大なるところなり。(ゆえ)にその苦痛・悲哀の山の如くなるとも(=山のような苦痛・悲哀に見舞われても)、喜び謝して受くべきなり。

(八)円満の愛

「我、愈々(いよいよ)爾曹(なんぢら)を愛すれば、愈々爾曹に愛せられず、されど喜びて爾曹の霊魂(たましひ)(ため)に財を(つい)やし、身を(つく)すべし」(コリント後12-15明治訳)と記ししパウロの心は如何(いか)に美しく、如何に大なるかな。

十字架上に己(=キリスト)を殺す者の為に、「父よ、彼らを(ゆる)し給へ、その()す所を知らざればなり」(ルカ23-34)と祈り給いし基督(キリスト)の心に至りては、我等(は)何の言を以ってこれを讃美すべきやを知らざるなり。ああ我等(は)深くこれを思わば、よく円満の愛を悟ることを得んか。

(九)神の子の伝記

汝は親に対して孝なるか、兄弟に対して愛あるか、朋友に対して信あるか、神を確信して深愛するか、貧困・艱難・悲哀・疾病(しっぺい)に、およそ打ち勝つことを得るか、永遠に忍びて神の(ため)・人の為に使わるるか。汝の日々の一言一行は、まさに汝の伝記を書きつつあるなり。努めよ、「神の子の伝記に新たなる一頁を加えんことを」(ウイリアム・ブース)。(しか)して神の子の伝記は善美ならざるべからず(=善美でなければならぬ)。基督(いわ)く、「如此(かく)するは、天に(いま)(なん)(ぢら)の父の子とならん(ため)なり」(マタイ5-45明治訳)と。

(十)基督を讃美す

()の時イエス、心に喜びて(のたま)ひけるは、天地の主なる父よ、此の事を智者(かしこきもの)達者(さときもの)とに隠して、赤子(おさなご)(あらは)し給ふ事を謝す。父よ(しか)り、これ(かく)の如は(みこ)(ころ)(かな)へるなり」(同11-25~26)。

ああ主は今も(いま)せり。当時の弟子に喜び給いたれば、今の弟子たる我の、一事を悟れることに()いても、深く喜び給うものと信ず。これを思えば、感謝喜悦の念、自ら禁ずること(あた)わざるなり。ああ我もし讃美せずんば、「石まさに叫ぶべし」(ハバクク2-11)。

(明治25年3月22日 女学生第22号)

コメント

タイトルとURLをコピーしました