基督の心第三一四集
山月御教話・続編(二十) 石田秀夫先生筆録
教育主任会講習会発開式ご教話(1) 昭和五年二月四日
『神の八方面』の《美》については大体話したが、今日はその他の方面について話してみたいと思う。
宗教は宣べ伝えさえすれば、人が善くなり、世のためになるなどと思われているが、そういうものではない。(例えば)いくら広告を見たり読んだりしても、実際にその品が手元になければ(=信仰が身に付いていなければ)何の役にも立たない。売る側(=布教する側)にしても、もし宣伝どおりの品を、今すぐ売ってくれ(=教えの根本を聞かせてくれ)と言われたらどうするか。
その点、ペテロなどは違っていた。
「金銀は我になし、然れども我に有るもの(=正しき道)を汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて進め」(使徒3-6)
社訓についても同じ事である。講釈ばかり聞いていても、実行しなければ、ただのお題目(=口先だけの言葉)である。いくら《神の完全》を宣伝しても、それで人が完全になるものではない。神は愛であるならば、献身的な愛を自分が持っているかどうか。《絶大》を声高に喧伝しても、人と調和できない者なら絶大ではない。
自ら体験実行し、人にも体験実行させて行く事が大切である。それには、自ら人の仰ぎ慕うような人格を養って、その日々の行ないや勤め方を(手本として)見たいと思わせるようでなければならない。
《神の純美》の続きとして、
忠烈の美
私は十二歳の時、村の夜学で『日本外史(=頼山陽の史書)』を学んだのであるが、他家からも本を借りて楠木正成の事を読み、『桜井の訣れ』に感動して涙を流した。「七度人間に生まれて朝敵を亡ぼさん」という忠烈の心は、日本歴史のあらん限り永久に滅せぬ美である。
広瀬中佐(=日露戦争下、旅順港閉塞作戦で殉職)の精神、乃木大将(=旅順攻略の司令官)の精神、橘中佐(=同じく遼陽の戦いで戦死)の精神もそうである。己を棄てた忠誠の心は、天をも動かし、当代をも後世をも感ぜしめるものである。
義(神の至善)
私の祖父は長州(=山口県)の士族で、日本武芸の殆どの免許を修得したほどの天才で、武者修行にも三度出掛けたという。大変厳格な人で、父はその教育を受けたので、私に対しても厳しかった。「正しい道を踏む事、嘘をつかぬ事、人の物を盗まぬ事」の三つを徹底的に教えられた。子供でも実行できる事ばかりである。《義》の精神が深く植え付けられたのは、この父の感化である。
昔の田舎の風紀の悪い中で、男女の仲を正しくすべき事、金銭上の不正を働かぬ事などを教え、自ら実践躬行(=口に言うとおりを実行する)して示してくれた。
母の事は、考えるだけで涙が出るほど慈愛深い人であった。経済的には常に貧しくて、凧も一銭の絵凧は買ってもらえず、独楽も金輪の嵌まった十銭のものは無理だった。米が足りなくて粥にして食べる事もしばしばであった。そんな中で、父母は衣食の不自由など超越して、私に義の教育を施したのであった。お陰で私は貧賤を恥じる事もなく、反って豊かな気持で過ごしたので、周囲からも裕福な家庭と思われていたくらいである。
『中庸(=中国古代四書の一)』に、「君子はその位に素して行ない(=己の境遇に応じて身を処する)、その外(=それ以上)を願わず。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄(=未開の僻地)に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざる事なし(=いかなる境遇になろうとも、必ず自ら充足する)」とある。己の分(=身の程)に応じて生き、分限以上の事を望まないのである。
英国の宣教医ホブソン(=漢名・合信)が著わした『全体新論』という医学書があり、父はこれを熟読して、私に川合信水という名前を宛がい、行く行くは医者にしたいと願ったのであった。この書の後半に『霊魂妙用論』という章があり、大変有名であった。「十読は一写に如かず」(鶴林玉露)で、父はこれを私に筆写させた。当時私は十五・六歳で、まだまだ外で遊びたい年頃であったけれども、早く終わらせようと思うと、写し間違えて反って時間がかかる。そこで純一になって書き写すよう努めた結果、静かで落ち着いた性格が養われたと思う。
その頃に読んだ本に『三国志』がある。中でも、「義を守ること鉄石の如し」と詠われた関羽の義に感銘を受け、「我こそは日本の関羽たらん」と思った。甲州の土地柄として、任侠の気風が濃かった所為もある。「義とは何ぞや」と問われれば、「義は我なり」と即答し得る自覚があった。
そんな直截的な義に変化を齎したのが基督であった。聖書の説く義は、儒教や仏教の義とは異なって、遥かに厳格なものであった。すなわち実行に現われる以前、心に少しでも悪が浮かんだ時点で、既にその人は義ではないのである(マタイ5-28他)。この心中の義を考える時、自分が多年苦労して得て来たはずの義など、もはや義ではない。それを知った時、かつてパウロも経験したあの深い罪悪感(=ロマ7-19他)に打ちのめされた。そして自分の力だけでは、到底そこから抜け出せない事を知って、初めて神の《救い》というものを悟った。即ち《義》の精神が強くないと(己が内なる悪を自覚できず)、真の救済は経験できないものである。
教理で考えれば、自分の本質が変わらなくても救いは得られる筈であるが、そういう姑息な(=間に合わせの)慰めでは満足できず、自分が神を信ずる以上は、徹底的に聖くなりたいと思った。
「汝らの義(が)、學者・パリサイ人に勝らずば、天國に入ること能はず」(マタイ5-20)、即ち我々は、神道・仏教・儒教の人達の義しきよりも義しくなければ、天国に入れないのである。そう考えて、自分を責め、修めて行った事が、大いに為になった。いかに教理が立派であっても、それを己の内に(素通りさせずに)有していなければ何の役にも立たぬ。いかに金時計が立派であっても、実際に所持していないのなら、安物のニッケル時計の方が役に立つ。
(吉田)松陰の修養の跡形を見ても、一貫して義を重んじている。
「義は勇によりて行なわれ、勇は義によりて長ず」(士規七則)
艱難を避けては義は行なわれない。故に勇が無ければ義は行なわれないのである。松陰のこの義の精神の薫陶を受けたのが、後の維新の志士達である。
信仰は義を離れると腐敗する。神の愛に狎れて堕落するのである。今日の基督教界の無力はそこから来る。
義は《(人体を支える》骨格》のようなものである。(現今の)義なき世にあって満身これ義となって改革して行く決心が必要である。
神に対して義しく、人に対しても職務に対しても義を行なう。ソドムの町は十人の義人を欠いたため、地上から抹殺された(創世記18-16以下)。一個人の存命も、一家の存続も、一国の存立も、義によって立ち行くのである。
神の義から人の義が生じ、人と人との間に行なわれて続いて行く。「いと小さき者(=名もなき隣人)」を愛する事は、神を愛するのと同じである。神の義は宗教となり、人の義は道徳となった。
孔子は天の義と合一した結果、「心の欲する所に從えども矩を踰えず(=自由気儘に振舞っても行き過ぎない)」(論語・為政)という境地に達した。
孟子は、《浩然の気》を説明して、
「至大至剛にして直く、養いて害することなければ、則ち天地の間に塞がる。その気たるや、義と道とに配す。これなければ餒うるなり。これ集義の生ずる所、襲いて取れるものに非ざるなり。行心に慊からざること有れば、則ち餒う(=[浩然の気は]この上なく大きく、この上なく強く、真っ直ぐなものであり、それを養い育てて害わなければ、天地一杯の精気となるが、もし義と道とに恵まれなければ、この気は生まれない。この二つがなければ飢えて死んでしまう。また、この気は内なる義によって生ずるのであって、外から借りて来ようとしても得られない。自分の行動に疚しい所でもあれば、たちまち飢え萎んでしまう)」(孟子・公孫丑上)と言っている。
神は人の良心よりも大きいから、己の良心に咎められているような時には、むろん神からも咎められているのであって、いずれにせよ義からはほど遠い。まず自分の中の(=良心と実行との間の)矛盾・衝突をなくし、(己を抑えて)忍耐して行く事が、神の義を受け入れる第一歩である。
義は天から生じるので、義を体現する者は天と一体となり、神を代表(=代行)する者となり、果ては天地を改革する事さえできる。
孟子の場合は、どちらかと言うと人間関係に重きを置いており、むしろ(社会の中にあって)相対的・道徳的になっているが、押川先生は、「より大きく、宗教的に考えるように」と忠告なさった。孟子のように「俯仰天地に愧じず(=天にも地にも何ら恥じる所がない)」(孟子・尽心上)、即ち良心の満足を基準に生きるのみならず、《完全》の高みに理想を置いて、日常を義しいものにして行く。それによって心が綺麗になり、平安になり、広大になり、大いなる義を懐いて、宇宙を抱擁する魂魄(=大精神)となる。
「これ集義の生ずる所、襲いて取れるものに非ざるなり」、着々と義を積んで合一する。根気が必要である。一つ克己すれば一つ義を積む事になる。(自分から)上ろうとする心と(神が)引き上げようとなさる心が合致する時がある(=啐啄同時)。そこに至れば、自由に考え、自由に語り行なって、それで終始良心が褒めてくれる。「義をおこなふ者は義人なり、即ち主(=神)の義なるがごとし」(ヨハネ1書3-7)。釈迦や孔子の跡形を思いつつ、日々に徳を積んで行く事は楽しいものである。
「美なる哉、万徳の聖人」(耶蘇の聖像に題す)
「それ神の滿足れる徳はことごとく形態をなしてキリストに宿れり」(コロサイ2-9)
人間一個の存在に、天地の神の絶対無限の徳が入って宿る喜びを、パウロは経験したのである。(続く)
教訓集第三巻より
山月先生文集(151)
山月子『女学雑誌』記事(二十五)
女の慎み
慎みは女の美徳なり。「心さえ正しからば」などと言いつつ、その言語・挙動等に少しも構わぬ人ほど、気の毒なるは無し。人世(は)、真に知己に乏し(=この世に己を理解してくれる人など非常に少ない)。如何に立派な心を持つとも、容易には人に知られぬものなり。
まして婦人の無頓着なる言語、不作法の挙動などは、多くの人の誤解を招き、思いもよらぬ悪評を蒙るものなり。惜しき事この上もなし。パウロは「神の我儕に賜へる靈は、臆する靈に非ず、能と愛と謹の靈なればなり」(テモテ後1-7明治訳)と言えり。
余(=私)は心にも無き一種の外形的謹慎を嫌うこと甚だしと雖も、神は常に我儕の上に在すという信仰を有し、人の霊を敬愛する心より、自然に出づる謹慎を大なりとし、重しとし、貴しとなす者なり。 明治二十五年九月十三日 女学雑誌三二三号乙
随感録
- 火は燃え涙は溢る
この炎々の烈火を如何せん。この滾々(=溢れて尽きぬさま)の熱涙を如何せん。我が身はもと(=元来)これ我が有(=所有物)に非ず、基督の血によりて贖われたるもの。真に弱く、小さく、及ぶべくも非ずと雖も、平生望むところ、この五尺の身(=貧弱な体躯)を透して基督の光の幾分かを世に顕さんとにあり。希くは我をして天地の涙を代表し、天地の憤を代表する者とならしめよ。希くは我をして愛の人たらしめよ。
この祈願・この熱望は我をして、我自らさえよく知ること能わざる不思議の人とならしめたり。深情多感、火は燃え、涙(が)溢るる点に於いて、かのパウロの友とならしめ、劉備(=中国三国時代の覇者。漢室再興を志して辛苦した)の兄弟とならしめたり。熱情(が)動く処、苦悶(は)屡々これに伴う。
- 我が日本・我が山梨
霊に於ける一妹(が)我にあり。年少にして夫あり、艱難(を)具に(=悉く)甞む。而も忍び信じて、大道を勇信す。この人(は)、我が憂国の情に同感すること切なり。嘗て書を寄せて曰く、「吾は兄の(=あなたが[兄は男性に対する敬称])家庭の徳(=和楽団欒の家庭の情愛)を知らん(=いつか知るであろう)ことを望む」と。その意は、我が孤身寥々(=一人で孤立した状態)、国を思い、人を思うの情に身を痛むるを憂いて(=心配して)なり。
妹(=親しい女性に対する呼称)の帰郷前、祈りと涙とを以て互いに語りぬ。我は粛然(=静粛厳粛なさま)として謂いて曰く、「日本は我が恋人なり。山梨は我が愛妹なり。我が心(は)これが為に思い悩む。人(が)もし我を思わば(=案じてくれるのなら)、我と共に邦国(=国家)の事を憂えんことを望むなり」と。
ああ我がこの心、分外の(=身の程知らずの)傲慢か。もし傲慢ならば、これ我が罪なり。はたまた、古来の愛国者と同一の心か。もし然りせば(=もしそうなら)、これ(は)基督が我に在し給うが故なり。
ただ我をして、世間一般の雷同者(=定見なく濫りに他人に同調する者)、もしくは感情にのみ馳する者とするは、未だ我を知らざるの言に他ならず。古来聞かずや、預言者・改革者は、多く狂人と呼ばれしを。
- 霊の二兄
寂々たる(=人材が乏しい)天地の間、愛する霊の兄(=親しい男性に対する呼称)二人あり。一人は繁劇(=激務・繁忙)の中にありて、その脳を痛めんことを我は憂う。今一人は既に脳を痛めて病床にあり。ああ我が一片の赤心(=真心は)、邦国(=国家)を思い、二兄を思う。方寸(=心中は)乱れて糸の如く、解くべからず。祈りによりて安んずる(=心を休める)ところありと雖も、人の情を持てる者、焉んぞ(=どうして)人の同情を欲せざらん。「請ふ、汝ら乾葡萄をもて我が力を補へ、林檎をもて我に力を付けよ。我は愛によりて疾み患ふ」(旧約・雅歌2-5)。
ああこれ(は)我の痴(=愚かしさ)か。一派の儒者(や)仏家はこれを痴と称さん。されども我は、悟り顔に「有限(=一定限度内の)責任の愛(『日本評論』記者の語なり)」を以って人に対し、人の為に全く己を献ぐる能わざる大弱点ある者(=全面的に人に尽すことのできない欠陥人間)の為に悲しむなり。ああ我は、これら非献身的なる魂を思いて悲しむなり。
- 霊の二妹
嘗て病の為に帰省せし二妹(=親しい2人の女性が)、無事の顔を以て、先には青ざめたる頬は肉付き、微紅を帯びて出で来りぬ。我が心は嬰児の如く、処女の如く、喜悦の情に堪えざりき。
ああ我が霊の姉妹は少なしとせず。我(は)、何を以て彼女らを愛するか。
ソロモン(=古代イスラエルの王。旧約『雅歌』『箴言』などの作者とされる)曰く、「誰か賢き女を見出すことを得ん。その價は眞珠よりも貴とし。(・・・・)艶麗は偽りなり、美色は呼吸(=たちまち消え去るもの)の如し、惟ヱホバ(=ユダヤの唯一神)を畏るる(=畏れ敬うところの)女は譽られん」(箴言31-10~30)と。ああ艶麗・美色なるが為に愛すと言う者、そは世の情(=俗情)にして大いに非なり(=よろしくない)。
基督の心を以って彼女らの永遠の霊を愛し、彼女らの霊をして次第に基督と一ならしむるよう勤む。これ(が)神聖の愛、これ高潔の愛、これ人物修養の秘訣、これ善をなすの根源なり。ああ我(は)これを悟れり。神聖・高潔の愛は、基督を愛する者にして初めてこれを語るべし。
この愛の動くところ、真誠の博愛となり、美絶の(=最も美しい)愛国心となり、無類の忠孝となり、讃嘆すべき友愛となる。これに激し、これに触るるも(=これに腹を立て、これに手を掛けたとしても)、これを退く(=退却させる)べからず。火焰もこれを焼くこと能わず、洪水もこれを溺らすこと能わず。愛の向かうところ、天下に敵なし。
- 使臣パウロ
愛を説きて、端無くも(=思いがけず)パウロの事を憶う。
「斯故に爾曹儆醒(=はっと目覚めさせる)せよ、我三年のあひだ、夜も晝も断ず涙を流して各人を勧めし(=訓戒した)ことを憶ふべし」(使徒20-31明治訳)
「われ(が)爾曹を見んこと(=会うこと)を深く願ふは、爾曹を堅固にせん為に、靈の賜を與へんと欲へばなり」(同ロマ1-11)
「われ(は)大なる患難と心の哀痛あるにより、多くの涙を以て爾曹に書遣れり。此は爾曹をして憂へしめんとするに非ず、我(の)なんぢらを愛する事の深を知らしめん爲なり」(同コリント後2-4)
「我(は)いよいよ爾曹を愛すれば、いよいよ爾曹に愛せられず。然れど欣びて爾曹の靈魂の爲に財を費し身を盡すべし」(同12-15)
「我(の)キリスト・イエスの心を以て爾曹衆を戀慕ふことに就いては、其の證をなす者は神なり」(同ピリピ1-8)
彼は実に斯くの如き熱愛の人なりし。テモテに向かいては、「我が愛する子テモテに書を贈る」(同テモテ後1-2)と書けり。諸教会に書翰を出すや(=出す時は)、「誰々と誰々の安き(=安否)を問ふ」(同ロマ16-21他)と、一々その名を記せり。彼は基督によりてこの愛あり。故に「患難・困苦・迫害・飢餓・裸體・危險・刀劍」、それら全てに「勝ち得て餘あり」(同ロマ8-35~37)しなり。
改革時代の日本は、パウロの如き人物を要す。パウロの如き手腕を要す。彼は日本に倍する程の地(=日本の二倍ほどの地域)を、ただ一人にて伝道せりと聞く。確信の人・熱愛の人、我は基督の心を以てこれを愛さんとするも得んや(=可能だろうか)。
- 故山(=故郷)の父
我が思うところは老父の身の上。心に寂然の感ある時、未だ嘗て芙蓉峰下(=富士山麓)の茅屋(=粗末な家)を想起せずんばあらず(=思い出さないことはない)。敬愛の父は、難に処してはますます堅く、正義沈勇(=内に秘めた勇気)、日本武士の面影を残す。されど年重なりて身(の)衰うるを如何せん。馬上顧眄す(=大将などが馬上悠然と四辺を望見する)と雖も、老伏波(=忍び寄る老いの波。黄庭堅の詩に見える語)は即ち老伏波なり。我が弟妹は果たして阿父(=父の敬称)を慰むることを得るや否や。これを思えば石腸万断す(=堅固な意思もずたずたにされる)。
嘗て帰郷せし時、父より聞きぬ、郷人(は)しばしば児(=私)の事を父に問うと。父は即ち答えて曰く、「彼の事は神に任せ置くなり。彼が確信して生死浮沈を神に任する如く、余(=私)も信じて彼を神に任せ置くなり。故に安心して一つも心配することなし。ただ病気や寒暑の時には、親の情として少しく気に懸るのみ」と。
出京(=上京)の時、車(=人力車)に乗じて門を出づ。車夫(=車を曳く男)は行く行く語りて曰く、「先生(=蘭方医であった父親を指す)も貴君の為に心配し給うこと少なからず」と。ああ我は多病にして、父を如何ほど憂えしむることか。生まれ来て二十五年、父母に対して幾何の孝を尽せしか。たとえ世人に比して恥ずかしからずとするも、基督に対して畏れ謹むの心なからんや。在天の神よ、我を鞭打ちて進ましめ給え。故山の父よ、忍びて(=忍耐して)我を寛し給え。
- ああ我は如何にすべき
家を思い、国を思い、人を思う、万感(は)交々湧出す。我は愛の楽を知り、また愛の苦を知る。この苦よりして、基督のゲッセマネの祈りの心を幾分か知り得たり。未だ基督の苦痛を知らずして、誰か基督の喜楽を味わうを得ん。未だ艱難の杯を甞めずして、誰か愛の楽泉を飲むことを得ん。
これを思う故に、我は謹みて艱難を受け、謝して悲哀を受く。而も人情・苦悶(が)甚だしき時、「ああ我は如何にすべき」の嘆声(が)起こる。この嘆きより我を救い出だす者は、ただ至愛の基督、ああ我をして凡ての愛する人に優りて基督を愛することを得さしめよ。基督の愛を以て、父に兄弟に姉妹に、またこの天下に尽くすことを我に得さしめよ。
明治二十五年九月二十二日女学生第二十七号

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