山月御教話・続編(十六)

基督の心第三一〇集

山月御教話・続編(十六)                  石田秀夫先生筆録

郡是(グンゼ)本宮(もとみや)工場主任会ご教話

昭和十一年五月十五日朝

 会社のような組織体においては、何よりも上下各部の協力一致が大切であり、それに関する質問もよく受けるのである。社員や幹部の統一が取れなかったりすると、社長・場長は己の不徳(=不行き届き)に帰する事になるので、悩んだ末に質問に来るのである。

 それは団体を(まと)める人に共通した悩みであるが、()()(さき)方策(ほうさく)などでは到底(しの)げない。やはり根本は信仰問題なのである。

およそこの天地の生ずる以前から、至善なる大精神(=神意)が遍在(へんざい)(=遍満)していて、ある時、ついに(とき)(いた)って万物を造化(ぞうか)発育させ、人間を創生育成した。その上で、((みずか)らの創造物を)昔も、今も、そして未来永劫(えいごう)、見守り続けているのである。それを神の《道徳性》と言い、古人は《道》とか《真理》とか名づけて来た。教育勅語(ちょくご)にも「古今(ここん)に通じて(あやま)らず(=過去・現在に照らして誤りがなく)、(ちゅう)(がい)(ほどこ)して(もと)らず(=国内外に実践して道理に反するところがない)」と言ってある。

 この信仰が修まらぬ限り、内心の統一も、団体の統一も付かない。人を統一しようとすれば、まず自分が統一されていなくてはならない。天地一杯の神と(つな)がっていない限り、人の心は善と悪の間を揺れ動いて()まない。すなわち信仰・修養と教育・訓練が一つになっていなければならないのである。

上に立つ者は、誰からも見られる。下にいた時なら問題にもならなかったことが、上に立てば、(いや)でも目立つようになる。ゆえにそれまで以上に身を正さねばならない。ところが人の耳目ならともかく、天地一杯の神の眼・神の耳を相手にする時、一体どう取り(つくろ)えばよいのか。それを考えれば、否応(いやおう)なく心が変わって来る。例えて言うなら、監視係に見張られて働いていた工員が、神の前に働くという気持に目覚めた時には、もはや監督など不要になるのと同じである。

西洋などでは古くから基督(キリスト)教の伝統があって、《天職》の観念が行き渡っており、職工自身が良心の監督者になっている。私どもも信仰によって人格を大きくしていかねばならない。人は草木と同じで、成長が止まればすぐ()ち始める。いくら書物を読んでも、それによって育つことがないなら、単なる記憶の集積、()きた本箱、世に言う「本の虫」で終わる。物事をよく咀嚼(そしゃく)(=噛み砕く)して役立てるのが修養である。

 福島の片田舎の巡査の細君(さいくん)(=妻)が、覚えたての平仮名で聖書を読み、「旅人を(ねんご)ろに(もてな)せ」(ロマ12-13)と書いてある所を読んで感心し、夫の上役・同僚・部下に、(へだ)てなく親切にした。すると夫の評価が上がって、どんどん出世したという。私の話を聞き慣れて、一向に実行しない幹部よりも、初めて聞いて、「なるほど」と感じて実行する職工の方が、ずっと進歩が速いことがある。

 信仰・修養の心がないと、忍耐ができず、継続して進むことができない。昔の立派な人はみな、困難を克服して進んだ。それを見習って己の人格を作っていくことが大事である。

西郷(さいごう)隆盛(たかもり)の子息(=西郷菊次郎氏)が京都市長をしていた。私は会って話したことがある。西南戦争で片足を()くし、顔は(父に)似ていないが、親切な人であった。その語る所によると、西郷は(おきの)()()()(じま)に流された上、牢に入れられたので、精神的抑圧と運動不足とから、あんなに太ってしまったのだという。誰も見ていない牢の中で端坐・黙想して、日々考えたのであろう。内には火のような感情と、断行の勇を持ちつつ、(あせ)らず、悲観せず、じっと(こら)えて、天命に従い、藩侯(=島津(なり)(あきら)久光(ひさみつ))に従順の精神を持ち、人格を鍛錬し、天地と共に(しず)まる(=取り乱さない)方面を養っていったのである。

若い時は短気であったが、()き腕を負傷したことと、親友・真木(まき)和泉(いずみ)らの忠告によって、物に動ぜぬ大器の人間になっていった。修養する事によって、欠点が特徴を養っていくことになる。また国家のために尽すには、学問も不可欠である。彼は歴史書を(ひもと)いて、時勢を見極める力、適材を適所に使う力などを身に着けていった。

歴史を作る人と作られる人とがある。英雄は歴史を作る。工場にもそれぞれ歴史がある。どうか諸君は修養を積んで、この本宮工場の歴史を作っていく人になって貰いたい。善い事を(きそ)うのは善いことであって、パウロはそれをオリンピックの競走に(たと)えた(コリント前9-24他)。

〇精神を大きくし、誠を充実させること

己の器を大きくし、品質を善くするよう努める。大器であっても品質の悪い者は《(かん)(ゆう)》と(おとし)められる。器には大小あっても、品質は努力次第で幾らでも善くなり得る。

〇力を養う

修業し、実行し、力を養っていく。己の実力は他人の実力を生み、己の実行は他人の実行を生む。無線電信のように、個人が実行する事が工場全体に伝わる。この工場が実行する事が郡是(グンゼ)全体に影響する。

どうかこのことを経験して、一人一人が大きくなっていって貰いたいと思う。

教育課教師送別会ご訓話

昭和〇年八月二十八日

「我らは神の中に生き、動きまた()るなり」(使徒17-28)

信仰に入ってから四十年、経験を積めば積むほど、なおもその深さを悟るものである。本日午前三時、(私は)限りなき生命というものを、以前にも(まさ)って悟った。(真の生命は)広さにおいても、深さにおいても、時間においても、限りなきものであるという事が、よくわかった。

 我々はなぜ存在し、なぜ生き、なぜ活動しているのか。それを考える時、神によって自分が()ることを知る。(すべ)ては神によるのであって、一分一秒の間も、神と離れることなどできない。これを考える時、学院(=郡是(グンゼ)誠修学院)の精神を(退職後も、社外において)継承する事ができる。継承して進み、神より育てられた道徳的・宗教的生命を(もっ)て新しい社会に入り、自分が入る事によって社会を清くすることが使命であることを自覚する。

これ(=当社の精神)を適用する時には、謙遜と柔和と愛と従順を(もっ)てしなければならない。行なうにも言葉よりも実行を以てしなければならない。

一方、後に残る者は、後任の人とどうして協力していくことができるか。神の生命が一緒に働いてくださることを信じ、自分自身が神によって存在していることを自覚するようにならねばならない。自分の存在が、神を根底にしていることを確認できねばならない。

 「父の命ずる所の(ほか)、我これを(おこな)うこと(あた)はず」(ヨハネ5-19か)

 この言葉を徹底して考え、パウロの意識した所を正しく意識せねばならない。神の希望は()くの(ごと)きものであるから、神のご希望に添うようにしなければならない。(退社によって)身体は離れても、精神は神によって常に一体であるから、別れも別れではなくなる。

渋沢(栄一)子爵(ししゃく)の孫(=渋沢敬三)が第一銀行で、「銀行を善くすることは方便(=便宜上(べんぎじょう)の手段)に過ぎず、むしろ銀行を利用する者が善くなっていかねばならぬ」と言った。我々も社訓の順序(=「誠を一貫して信仰・人格・勤労・貢献の完全を期す」)を間違えてはならない。

《土台》を一番に考えることが大切である。絶えず進歩する人が、絶えず周囲を引き上げていく。しかも完全を目標にしているから、如何(いか)に成績が良くても、謙遜してどこまでも進歩する。

(我々の宗教も)完全を理想としているから、どの宗教をも学んでいくのであるが、あらゆる真理は神から出ているのであるから、決して混濁させられることはない。

先人の説いた所にばかり固着していてはならない。神は我らの上にも、(まわ)りにも居給うことを信ずる信仰が大切である。

有形のものを変えようと思えば、まず無形のものを変えていかねばならない。

確固たる自信と絶対の謙遜が大切である。一つ一つ自分が学んでいかねばならない。学ぶことによって、教えることができる、教えることが学ぶことになる。まず(おのれ)を修め、それによって人を善くしていく。

(逆に言えば)絶えず人格を進歩させるような信仰を、己が持っているかどうか、それが問題なのである。

教訓集第三巻より

日常不断の修養(続き)

大正十五年五月十三日 於 工務主任会

  • 人の長所を取る

 「取る」とは、学んで自分のものとする事である。

 「善を学ぶ者は、人の長(所)を取って短(所)を補う」((りょ)()春秋)

これは完全の人格を修めるに必要な修養である。

  • 他の短所に染まらず

 「朱に交われば赤くなる」(太子少伝箴)

偉人の長所・美点は努力してもなかなか身に付かないのに、短所・欠点は黴菌(ばいきん)のように、知らぬ間に感染してしまうものである。プラトーン(=ソクラテ-スの高弟。『イデア論』を説いた)は身体が痀瘻(くる)(=猫背)であったが、世人はそこばかり真似た。

白河(しらかわ)(らく)(おう)(=松平定信。江戸後期の幕府老中)は(寛政(かんせい)の)改革を断行するに当たって()(しょう)(もん)を捧げ、「もし(ぎょう)(が)()らずんば、我が生命を召し給え」と祈った。そして先代・()(ぬま)(おき)(つぐ)の政策を廃して、緊縮財政を敷き、風紀を取り締って文武二道を推奨した。ゆえに遊興者(ゆうきょうもの)贅沢者(ぜいたくもの)・規律を嫌う者からは批判され、(しょく)山人(さんじん)(=(おお)()(なん)()。江戸後期の連歌師・戯作者)は、「世の中に()ほど(=これほど)(うるさ)きものは無し、文武(ブンブ)文武(ブンブ)と夜も寝られず」

とからかった。そんな事で、せっかくの改革も余り効果を上げられなかった。

この蜀山人はもともと大酒飲みで、見兼ねた弟子たちが禁酒を誓わせた。ところが出入りの魚屋が初鰹(はつがつお)を持って来るとたちまち気が緩み、ついに深夜に及ぶ深酒となってしまった。偵察に来た弟子が(とが)めると、「我が禁酒、(やぶ)(ごろも)となりにけり、()して(=()して)下され、()いで(=()いで)くだされ」と悪びれもせずに(うた)い、結局禁酒は一生できなかった。

私が二十四歳で東京に出て来た頃、この白河翁の事を雑誌に書いた所、その人物・政策について賛否両論が起こった。先輩はおおむね()めてくれたが、友人はむしろ蜀山人を面白がった。ところがそんな連中の多くは、今どうなったかわからない。他人の努力を(けな)し、短所を真似るような生き方は、実際問題として、やはり善くないのである。

上人(じょうにん)は物事を(ちょく)に見、中人(ちゅうにん)は物事を察し見、()(にん)は物事を(まが)り見る」(大江重房)

世に下人は多く、中人は少なく、上人は(まれ)である。楽翁は上人に属し、蜀山人は下人に属す。自分自身を見る時、また人の言を聞く時、よく注意すべき言葉である。

  • 純一に修養し研究す

純一は頭でわかっても、実際にできなければ意味がない。昔、()(そん)(けい)という人は読書が好きで、いつも戸を閉ざして本を読み(ふけ)っていた。その細君(さいくん)(=奥さん)は働き者で、(おんな)()一つで一家の暮らし向きを支えていた。ある日、「穀物を庭に干したまま畑へ行きますから、もし雀が来たら追い払ってください」と、竿(さお)を手渡して出て行った。間もなく(にわ)か雨が降り出して、穀物は水に()かって流れて行ってしまった。細君が帰って見ると、孫敬は竿を手にしたまま、何も知らずに本を読み続けていたという。

 ドイツのムンゼン博士(=前出)の純一ぶりは既に話した。

 私はかつて東嶺(とうれい)和尚(おしょう)(=(はく)(いん)(ぜん)()の筆頭弟子)の書の中に、「仏祖の(げん)(きょう)(は)、一々明了(めいりょう)ならざれば()かず(=はっきりさせずには()かぬ」とあるのを読んで疑問を起こし、以来十年間研究した事もある。

  • 労苦を厭わず

 他人が成果を挙げるのを見て(ねた)んだりしてはいけない。人が成功するにはそれなりの努力や工夫があるのである。それを考えずに、自分は楽をしたまま、結果だけ良くしたいと思っても、そうはいかない。

 アレキサンダー大王(=アレクサンドル3世)は世界五大英雄の筆頭である。古代マケドニアの王子に生れ付き、錚々(そうそう)たる名士に()いて学問を修めた。家庭教師はあの有名なアリストテレス、数学はユークリッド(=共にソクラテース門下の世界的大学者)に()いて学んだ。さすがに幾何学は難しかったと見え、「()(=私)は帝王なるぞ。もっと簡便に解ける方法はないのか」と癇癪(かんしゃく)を起した。するとユークリッドは、「幾何学は宇宙の真理であります。真理を前に帝王も乞食も違いはありませぬ」と(たしな)めた。さすが曲学阿(きょくがくあ)(せい)(=真理を()じ曲げて世に(おもね)る)の学者などではなかった。

 シラー(=18世紀ドイツの文豪)は、「貞操は唯一の至宝にして、皇后の尊きと(いえど)も(=いかに尊貴な皇后陛下であろうとも)、()(せい)の(=庶民の)婦人と(公平な)競争せずば、これを()(がた)し」と言った。

 サルバーク(=前出。『完全訓講話改訂版』二四五頁には、18世紀イタリアの名ヴァイオリニスト、ジャルディーニについて同趣旨のエピソードが語られている)が楽器を取って楽壇に立てば、必ず聴衆を恍惚(こうこつ)たらしめた。ある人がその妙技の所以(ゆえん)を問うと、サルバークは答えて曰く、「一曲を聴衆の前に奏するには、千五百回の練習を要します」と。

 全て優れた働きの背後には、()くの(ごと)き労苦の存する事を知らねばならぬ。このような用意と熱心とを以て事に当れば、工務の成績を上げるくらい何でもない。

  • 服従の勇志

 「雄々(おお)しき服従は、真に頂天(ちょうてん)立地(りっち)(=広天を(いただ)いて大地に立つ)の独立男子にして、初めてその消息(=奥深い真相)を(かい)(=理解)すべし」(ワーズワース)

 現代は反抗的気風が広まっていて、反抗しない者は()(よわ)な人間と()()され()ねぬ風潮さえあるが、それは本我と私我を混同しているのである。己の立場も(わきま)えずして、むやみに私我を立てるなど、決して雄々しい振る舞いではない。特に団体組織においてはそうである。

 人間は決して独力では生きられぬ。早い話、もしこの地球に引力が無かったら、地上のものみな全て、遠心力によって宇宙の彼方(かなた)へ飛ばされてしまう。引力のお陰で水も空気を地上に留まり、我々人間も地に足を着けて生きておられるのである。この消息を知って神に感謝し、本我を目覚めさせねばならぬ。すなわち天地の真理を知り、それに従って初めて責任ある人間となれるのである。

 真に責任感ある人間は、己の不完全を自覚し、独善を慎み、()(まま)勝手を押さえ、神に従い、社訓に従って、一致団結、協力一致して職務に励むのである。しかも諸君は職場の主任なのであるから、率先(そっせん)してこの精神を工場内に弘め、(あい)共々(ともども)に進むよう努めねばならない。それはまさに勇気ある任務であって、臆病では決してできない仕事である。

  • 光陰(=時間)を惜しむ

 社訓の講習を受けた人は、「時は生命なり」という言葉を覚えているであろう。私も(こと)に近年になって、この感を強くしている。

 「(きょ)(とう)(だん)()(=ふと頭を()げ、無意識に指を(はじ)く間)も嘆息して、(すべか)らく(=必ず)寸陰(すんいん)分陰(ぶんいん)(=一分一秒)の(むな)しく()ぐるを惜しむべし」(道元)

 「光陰(を)惜しむべし。空しく雑用(ぞうよう)(じん)する(=無駄な事に心を用いる)こと(なか)れ」(大灯)

 「()うこと勿れ、老来(ろうらい)(=年を取ってから)初めて道を学ばんと。古墳(=古い墓の)多くはこれ少年(=年若い人のもの)」(徒然草(つれづれぐさ)

 森田()(ゆう)氏(=永平寺第64世貫首(かんじゅ))は曹洞宗(そうとうしゅう)第一流の大徳(だいとく)(=名僧)であった。一方、本願寺派の村上(せん)(しょう)氏(=東京帝国大学インド哲学科の初代教授)は仏教史の大家で、かつて悟由氏に、「各宗の開祖はみな長寿であるのに、道元禅師のみは短命で()かれて、(はなは)(くや)やまれる」と言ったところ、「いや、早く死んでくれてよかった。長生きされたら、我々のわからない事を一杯(のこ)されて、えらい事になったろう」と答えたという。

 この問答からも、道元の偉さと、彼が寸暇を惜しんで著述した事がわかる。無い時間も工夫すれば生まれる。メランヒトン(=16世紀ドイツの人文学者。ルターの思想の体系化に尽力した)の例を見よ。私も歩行の時間・食事の時間・車中の時間を瞑想・祈祷に当てた。群馬県の女学校では、校長と教授と兼ねて事務繁多であったが、廊下を歩く時間・登下校の時間を修養に用いた。やってみると、結構多くの時間が得られるものである。諸君も多忙の中、よく時間を工夫して、日常不断の修養に努められたいものである。

英雄の五大特質

大正15年6月4日 本社職員修養会

昨日までは、もっと別の題でお話しするつもりであったが、今日ふと思い付き、(にわ)かに変更した。それが(はか)らずも社長の(訓辞の)意向とも合致していたようで、不思議の感を(いだ)いている。この話はかつて一度、横浜で講演した事がある。

私共(わたしども)が歴史を読んで、感動と希望と勇気を与えてくれるものは、英雄たちの人格と事業である。もし我々が英雄のような性質を持つならば、事業経営など容易(たやす)い事であろうし、多数を動かす事も難しくはなくなる。私は英雄の精神特質を研究して三十年になる。今日はその詳細には(わた)らず、大要を五つばかり挙げて、英雄の本質に迫りたいと思う。これを本当に修めて行ったならば、人を引き上げるにも、事業経営の上にも、大いに益する所がある(はず)である。

(一)誠実

 「英雄の第一特性は至誠なり」(カーライル)

 私がここ(=郡是(グンゼ))に来て以来、何十回となく話す事であるが、いくら社訓を(そら)んじていても、実行が伴わなければ何にもならない。

 支那(しな)(=中国)三国時代の諸葛孔(しょかつこう)(めい)(=(りゅう)()(げん)(とく)()(ぎょう)を支えた智将)は、誠実を超えて至誠の人であった。あの『(すい)(しの)(ひょう)(=出兵を上奏する文書)』を読んで泣かぬ者は人に(あら)ずとまで言われたほどであった。

しかしそんな彼を動かしたものは、他ならぬ主君・劉備の至誠であった。劉備は(ほう)ずる(=崩御(ほうぎょ)する・死ぬ)に(のぞ)んで(たい)()(りゅう)(ぜん)と孔明とを召して、()(しょう)(=君王としての遺言)して曰く、「我が子・劉禅よ、この父は不徳にして(ぎょう)(なか)ばにして()く。(ちん)(=君王の自称・私)亡き後は丞相(じょうしょう)孔明を父と仰ぎ、全幅(ぜんぷく)これに(つか)えるべし」。孔明に対しては、「もし太子にして(たす)()べくんば(=輔佐するに足る人物ならば)、これを支えて(かん)(まつりごと)を復興せしめよ。(しか)してその(うつわ)たらずんば、(きみ)(が)(みずか)ら国を取れ」と。孔明はその至誠に感泣し、(てい)の手を取って、太子を輔佐する(むね)を誓った。

北条(ほうじょう)(そう)(うん)(=室町後期の武将、()(ほう)(じょう)氏の始祖)は戦国の世に出た人で、応仁(おうにん)(らん)後の乱世に、(おのれ)一個の才覚によって今川の客将(かくしょう)(=お抱えの武将)となり、遂に小田原を()って小田原北条家(=後北条氏)の(もとい)を開いた。早雲は智者・巧者たるの一方、存外誠実な所があった。その徳を慕って諸方から人が集まって来たのである。

その言に曰く、

「人は(かげ)(つとめ)が肝心なり」と。

今日(こんにち)は『能率論』などが持て(はや)されているが、目立つ所ばかりを努めても誠は育たない。

秀吉が信長に仕えた頃、今川には優秀な人材がたくさんいた。秀吉はそういう人を味方に引き入れようとあれこれ働き掛けた。その中に大沢()(ろう)()()(もん)という武将があった。()(ぬま)城主であったが、秀吉の勧めで降伏し清州(きよす)城に出頭した。けれども信長は信用せず切腹を申し付ける。秀吉は(ひそ)かに一刀を与えてこれを逃がした(=その後は柴田勝豊・秀吉・秀次らに仕えた)。信長の短慮と秀吉の誠実とを物語る逸話である。

荒木村重(むらしげ)は信長に仕えていたが、(或る)事を(もっ)て信長を怨み、()(たみ)()って背いた(=謀反の原因は諸説ある)。秀吉は村重を翻意させようと、単身その城に乗り込んで説得した。この時、村重の部下の者が、「秀吉は供回(ともまわ)りを連れておりませんぬ。今これを()てば信長には痛手となりましょう」と説いたが、村重はそれを(いさぎよ)しとせず、そのまま秀吉を帰らせた。これも秀吉の誠実さのなせる(わざ)である。

秀吉の話が続くが、越後の(ゆう)・上杉景勝(かげかつ)は信長と間で次第に反目を強めていた。そんな中、秀吉は景勝に会って直談判しようと、僅か三十八騎を(ひき)いて糸魚川の城に向かった。その時、景勝は(おちり)(みず)(じょう)(=越後勝山城)に行っていて留守であった。そこで景勝の手の者が、「秀吉殿は丸腰で来ております。討つなら今ですぞ」と早馬で知らせた。景勝はこの書状を見て、秀吉の誠意に感じ、「この景勝に疎略(そりゃく)あるまじき(=無礼の振舞などあり得ぬ事)を()(ぞん)じゆえの御出(おでまし)なり」と言って、会談に応じたのであった。

人は誰でも誠実に対しては感動するものである。英雄は努めずしてこの心を持っている。

  • 大志

 私の所にいろんな人が相談に来る。その多くは、人と衝突したとか、感情を害したとかいう話である。そういう問題は大志を欠き、大局を見ないから起こる。学問があると学問に()り固まり、才智があれば才智を(たの)み、文章家は文筆を、弁舌家は弁舌を誇って人を低く見る。それは大志でなく小志というものである。英雄はみな天稟(てんぴん)(=生まれつき)に大志を持っているが、我々凡俗は修養してこれを持たねばならぬ。

 (もう)()(もと)(なり)が十二歳で(いつく)(しま)神社に(もう)でた時の、従者との問答はよく知られているから今は略す。信長が毛利攻めを開始し天正十年には、その元就は(すで)()く、輝元(てるもと)(=長男)が家を継ぎ、吉川(きっかわ)元春(もとはる))、小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)()(しゅく)(=元就の次男と三男)がこれを(たす)けていた。

 信長は秀吉を派遣するに当たり、「毛利討伐に成功すれば、毛利の領地を全て汝に与える」と言った。秀吉はそれを固辞して、「(もり)(なり)(とし)殿(どの)、滝川殿、柴田殿の如き宿将(しゅくしょう)(=功労ある名将)でさえ、そのような大賞は受けておられませぬ。もし中国()がらば(=もし中国地方を平定できれば)、私めはその一歳(いっさい)(=一年分)の収入を頂戴致し、それを以て大艦巨船を造り、朝鮮を攻降(こうこう)し、支那(しな)(=中国)に入り、天竺(てんじく)(=インド)を降伏させてご覧に入れます」と言った。「汝、またもや大言するか」と信長は笑ったが、秀吉は後年、実際にその(そう)()(=壮大な企て)に取り掛かったのであった。

 山崎の合戦(かっせん)では、中川(きよ)(ひで)(=通称・()(びょう)())が敵将・斎藤(くら)()(すけ)を破って、(すこぶ)る戦功があった。その時、秀吉が(こし)に乗って通りかかり、「瀬兵衛、骨折り(=ご苦労さん)」と声を掛けた。清秀は、「猿(=秀吉の愛称)め、()や天下を取った気でおるわ」と苦笑いした。秀吉の大志は既に天下を呑んでいたのである。

 ナポレオンが(いっ)(ぱい)()にまみれて(=大敗を喫して)セント・ヘレナ(=南大西洋上の孤島)に流された時、ある人が、「あなたの生涯最良の時はいつでしたか。皇帝即位の時でしたか、()(しょく)(てん)(=婚礼)の時でしたか」と問うと、「それは世界制覇を志した時だ。雄大の気が天地を震撼(しんかん)させる(=震わせる)ように思われたものだ」と答えた。

英雄には生まれついての覇気(はき)がある。我々も小人物ながら、小我(しょうが)を棄てて、英雄の如き大望(たいもう)(いだ)くべきである。(続く)

山月先生文集(147)

山月子『女学雑誌』記事(二十一)

武芸

()が祖父(=長州藩武芸指南役)の説なりとて、父上(=蘭方医)の語り給いし(ことば)に、

「武は無形なり。()つに撃たれず、斬るに斬られぬものなり。(・・・・)勇者はその手を刀に触れずして(=刀に手を掛けずに)、よく敵を服さしむ、云々(うんぬん)」とあり。

我は思う、かの血気粗暴の(やから)が他(=相手)を斬らんとて()き、他が(=相手の)自若(じじゃく)(=平然)として(どう)ぜざる風采(ふうさい)(=態度)に気を呑まれ、(たん)(=胆力・気力)を砕かれて、何も()すこと(あた)わざりしというが如きは、(けだ)し(=恐らく)他が「撃つに撃たれず、斬るに斬られず」という《武》と(いつ)なりし(=合一している)が(ゆえ)(あら)ずや。切言すれば(=端的に言えば)、()きたる武なるが故に非ずや。今、武を習う者(が)、もし《芸(=技術)》のみに(とど)まらば、何の効かあるべき(=何の効果があろうか)。

明治25年4月23日 女学雑誌314号

人物修養(偶感三)

  • 読むべきもの

読むべきものは(あに)(=どうして)書物のみならんや。自らを読むべし、人を読むべし、天地を読むべし。

(二)大なれ

吾人(ごじん)(=我々)の憂うる所は小なるにあり。目を()げて天地の広大なるを()んかな(=見ようではないか)。吾人(は)この天地を造れる神を信じ、これを愛し、これを信じ、これと一にならんことを欲する者。(すなわ)ち天地の如き広大なる心を持たざるべからず。

(三)(まった)きを望め

自ら公平なりと信じ、正義なりと任ずる者は愛に乏しく、愛を説き、人情を(とな)うる者は、毅然(きぜん)(=確乎たるさま)・粛然(しゅくぜん)(=厳かなさま)の精神に(とぼ)し。今日の信者は偏僻(へんぺき)(=(かたよ)(ねじ)ける)の者多し。ああこれ(いま)だ深く基督(キリスト)を愛せざるの(ゆえ)(あら)ずや。

基督は完全なり。(つよ)く、優しく、大きく、小さく、悠然(ゆうぜん)たり、(あい)(ぜん)(=穏やかなさま)たり、毅然たり、粛然たり。真と善と美とはその一身にあり。果たしてよくこれを愛せば、吾人(は)(あに)(=どうして)()せられざるの()あらんや(=どうして感化されない理由などあろうか)。人々よ、岐路(きろ)彷徨(ほうこう)する(=分かれ道に迷う)こと(なか)れ、()う、基督を()よ、完きを望め。

明治24年12月26日 女学生第19号/明治25年4月30日 女学雑誌315号

新著批評

書法大意(小野鵞境堂氏著)

博文館にて発見するところ、(まこと)にその《大意》の名に(そむ)かず。もし一本(=この一冊)を机上に備えば、裨補(ひほ)(=助け補う)するところ鮮少(せんしょう)ならざるべし(=少なくないであろう)。

(ばん)(せい)()()(金鴎館蔵版)

これ和漢洋の格言を集むるもの。上欄には熟語の詳解あり。(すで)に四集まで発兌(はつだ)(=発行)せり。木版なれば誤字の憂い(=惧れ)も無かるべし。至極重宝の書なり。

明治25年4月30日 女学雑誌315号

新刊雑誌批評

国語漢文講義録(吉川半七発行)

中等教育を目的として発行するもの。講義明晰(めいせき)にして遺憾(いかん)なし(=申し分がない)。()つ質疑応答、懸賞文などあるは、この誌の特色なるべし。

城南評論

これ文学の雑誌、屹然(きつぜん)として(=すっくと立って屈しないさま)一旗色(きしょく)(=独自の主張)を()つ。()するところの文、面白きもの多し。

後進

青年の手に()りて()る。活気鬱勃(うつぼつ)(=活気盛んなさま)たり。吾人(ごじん)(=我々)は『後進』が義侠の心を発揮すると共に、(かん)(こう)偉大の精神を修養せんことを望むものなり。

東京批評

政界益々(ますます)繁忙ならんとする際、『東京批評』は()でたり。国政経緯に通ずるを()って任ずる(=自任する)もの、吾人は発刊の辞を読みて、よくその実を尽さんことを祈る。

おだやか

横浜より発行す。基督(キリスト)(きょう)青年の手に成る。自任(=自信)の気、紙上に躍々(やくやく)たり。前途有望の雑誌よ、自重なる(=自尊する)べし、謙遜なるべし。

呼声

長崎より発行。基督教の雑誌なり。願わくは同地方の光たれ。

ぱらだいす

雲州(うんしゅう)(=出雲(いずも)地方)松江より()づ。基督教主義の雑誌なり。

朝鮮新報

朝鮮の事は、本邦人にして注意せざる者多し。吾人(は)、(あに)(=どうして)この新紙を紹介せざるを得んや。             明治25年5月7日 女学雑誌316号 

文の評

(随感『一村雨』[ひさご筆]の文後に)

山月子(さんげつし)曰く、「我この文を読みて、憮然(ぶぜん)として(=やり切れぬ思いで)涙(くだ)る。ああ日本の女子(は)、多くは弱く小さし。未だ真正の偉人を()るの眼識を有せず。(しか)して日本の男子(は)、多くは霊眼なく、純義なし。(いま)だ赤心(=偽りのない心)より淑女を重んずるの精神あらず、これを如何(いか)にすべき。

我は確信す、男女の愛をして基督(キリスト)の直接なる洗礼を受けしめずんば(=受洗させなければ)、決してこの状況を救うこと(あた)わずと。

世に軽佻浮薄の男児有り、(しか)して義人(が)これと同じく()られんとす(=同一視されそうになる)。世に不義不節の女子あり、而して淑女(が)これと等しく(ぐう)せられんとす。遺恨(いこん)何ものかこれに()かん(=その遺憾なること何物にも較べ難い)。吾人(ごじん)は天を仰いで、基督の愛の泉が、日本社会を(くま)なく(うるお)さんことを熱祷(ねつとう)する者なり」。

明治25年5月7日 女学雑誌316号

巌本善治氏の慰労会

五月十四日(土曜日)、迎春客(=巌本氏の筆名の1つ)巌本善治氏の慰労会を開きぬ。明治女学校の教員生徒諸氏、孤女学院(=現・滝之川(たきのがわ)学園の前身。濃尾地震の孤児救済の為に創設された)の大須賀(おおすか)(石井)亮一(りょういち)氏、並びに我が社員等、合して百余名、軽舟四(そう)に乗じて、牛込(うしごめ)より流れ(=外堀と神田川)に(したが)いて(すみ)()(がわ)()で、(さかのぼ)りて向島(むこうじま)に着し、(しょう)寿(じゅ)(えん)(=鳥料理の料亭。広い庭園があった)に入りたり。

清風(は)(みどり)(=緑樹)を吹きて、麗日(は)(からだ)に快く、談話遊歩(しつつ)また他事を忘れぬ。

日(は)傾き、会(は)散じて、軽舟(は)再び隅田に浮かぶ。時(あたか)も高等商船学校(=現・東京海洋大学)生徒の端艇(たんてい)(=ボート)競漕(きょうそう)を観る。喝采(かっさい)の声、水に響きて快し。これ当日(の)期せざるの(たのしみ)なりき。

(けん)層雲(そううん)(は)穏やかに落日を呑み去り、水波(すいは)は静かにして、舟は既に御茶ノ水(おちゃのみず)(へん)にあり。心は澄み、談は熟して愉然(ゆぜん)(かい)(ぜん)(=心楽しく愉快なさま)の中、(おの)ずから端然(たんぜん)粛然(しゅくぜん)(=落ち着いて心静かなさま)たり。這般(しゃはん)の心事(=このような心理状態)を知る者、(ひと)り在天の父のみ。

舟は岸に着して、各々家に帰りたり。    明治25年5月21日 女学雑誌318号

問答

〇問 事を成さんと欲するも(その事の長短[=善悪]を問わず)、中途にして気力を失い、加えて何物を見、何物を聞くも愉快を感ぜず。世事、さらに望み無きの感を惹起(じゃっき)する事(=引き起こすこと)しばしばあり(そうろう)。これ如何(いか)なる理由にや。この悪魔を退治するの(すべ)(あわ)せて御教示くだされたく(そうろう)

〇答 物事を成す時、中途にて気力を失うということは、身体の関係もあり。(しか)らずしてただ心の関係のみにてあらば、その事業に対する心の誤れる(ゆえ)なり。(いな)、むしろ人生に対する考えの誤れる故なり。さればこそ、望み無き感をも起こし(たも)うなれ。

人生・人間、これ実に大問題なり。この問題に答えて、吾人(ごじん)(=我々)の霊性を満足せしむるものは基督(キリスト)なり。もし基督を確信することを()ば、望みを()べし、愛を得るべし。基督は言えり、「(おそ)るる(なか)れ、我すでに世に勝てり」(ヨハネ16-33明治訳)と。

事を(いと)う者、世を厭う者は、世に負くる者なり。君(が)、(いま)だ基督を信ぜずば、()う、教会に行きて説教を聞き、かつ牧師を訪ねて質問されよ。また既に入門されしおらば、更に確信せらるべし。誠心の熱涙の祈りを()って基督に求め給うべし。

基督は曰く、「求めよ()らば受けん。(・・・・)しかして爾曹(なんぢら)の喜び満つべし」(ヨハネ15-7~11明治訳)と。君が世を厭い給うことは幸せなり。そは(=それは)真正の(らく)に入る門なればなり。君が悲しみに沈み給うことは幸せなり。そは基督の同情を求め得べければなり。ただこの際、最も虚心にして道を求め給うことを要す。

明治25年5月21日 女学雑誌318号

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